竹内銃一郎のキノG語録

乾いてる、沖島勲の映画2011.11.08

2、3週間前から全身がむず痒く、アレルギーか[e:3]もしかしてとんでもない奇病かと、この間ずっと不安におののく日々を過ごしていたのだったが、数日前、テレビのニュースで、「この冬、乾燥肌が大流行」というのを見て、これだと分かってひと安心[e:788]
早速クスリ屋でそれ用の乳液を買って、塗ったら痒み和らぐ。やれやれ。
沖島勲の映画「ニュージャックアンドベティ」を見る。40年ぶりの再会。
おかしな映画だ。現実と妄想が分け隔てなく、遠慮なく互いに侵入しあう。
お見合いの席が乱交の場になるという話だから、もうなんでもありなのだ。若いわたしはその潔さに心ひかれたのだろう。
巻末に、監督へのインタビューというおまけがついていた。その中で、何度も繰り返されていた沖島の言葉にわたしも同意した。
いわく、「ひとは普段、文学的なことなんてほとんど考えてないのに、なんでみんな、映画に文学的なテーマを求めるんですかね」と。
この10日ほどの間に、全身の痒みと闘いながら、3本の芝居を見た。どれも始めて見るカンパニーのものだったが、始まって10分経つか経たないうちに退屈してしまって、うとうとしてしまった。ベッドでは痒くてなかなか寝付けないのに。
退屈なのは、どれも〈文学的な〉テーマから自由になれないからだ。だから、ラストがおセンチになる、湿っぽくなる。なにか言いたげになる。
改めて言うまでもないが、文学と〈文学的〉は似て非なるものだ。優れた文学作品は、どれも乾いてる。そう、沖島勲の映画のように。

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