竹内銃一郎のキノG語録

このスピード(感)はどこから来るのか。 「グランド・ブダペスト・ホテル」ノート④2015.03.20

この映画のスピード(感)は尋常なものではない。「ひとも動く、ボールが動く」とはかのオシムが目指したサッカーだが、この映画では「ひとも動く、カメラも動く」。以前にも書いたように、「お話」の冒頭に置かれた、グスタブのひととなりを紹介するカメラの動きは陶然としてしまうほどのスピード感に溢れ、そのグスタヴとゼロの凸凹コンビがふたり揃えば、ほとんど走っているか、足早に歩くことになっている。この頂点が、「お話」終盤に用意された「殺し屋」と凸凹コンビによる雪上での追っかけだ。スキーで逃げる「殺し屋」を、ふたりは橇で追いかけるのだが、これが! 最初は(なぜか設置してある)旗の間を回転競技よろしく凄いスピードで巧みにすり抜け、それがいつしかルージュ競技に変わって更にスピードは上がり、と思う間もなく、今度は高く長い斜面を滑り降りてジャンプするのだ! まさに、ふざけるのもほどほどにしろと言いたいほどのギャグの連打・連発。しかし。

こういった物理的なスピードだけではなく、そもそも「お話」(の展開)自体が、呆れるほどにスイスイ運ばれるのだ。グスタヴの大事な「お得意様」であるマダム・Dは、あっと言う間に殺されてしまうし、その犯人はすぐに分かるし、濡れ衣を着せられて投獄されるグスタヴは、たちまちのうちに脱獄に成功してしまう。おそらく、こういった松田定次の「鳳城の花嫁」や「旗本退屈男」にも似た調子のよさが、この映画に批判的な(多分マジメな)観客にとっては、「リアリティがない(ありえない)から面白くない」のだろう。フツーの映画なら、犯人捜しに手間隙をかけるし、獄中生活の辛さ・厳しさを描くだろうし、脱獄だってもっとサスペンスフルに見せるだろう。それら「フツー」の一切が省かれてしまっていることが、「手抜き」に思えたのかも知れない。

スピードを感じさせる仕掛けがもうひとつある。それは、頃合を見計らって度々挿入される、「ひとも動かない、カメラも動かない」カットだ。前稿で、「作家」がカメラに向かって「作家論」(?)を語るシーンがあることを紹介したが、それを反復するように、グスタヴはカメラ目線で時に「深遠な人生哲学」を語る。もっとも印象的なのは、凸凹コンビがマダム・Dの死を知って、彼女の邸宅に向かう列車の窓から見る、雪の中に居並ぶ兵隊たちをロングでとらえたカットだ。これが二度あるところも憎い。これらの静止画(ではないけれど)が、一種の矯めとなって、前後のスピード(感)を更に高めることに貢献しているのだ。あるいは。

「国の宝」と称される「作家」の名前は、なぜか伏せられていることも前に触れたが、グスタヴの過去もほとんど明らかにされず、ゼロもまたその名が示すように、内乱によって家や家族の一切を失くしたことになっている。この物語の中心人物である3人の内面を形成しているであろう手がかりは、なにもないのだ。いうなれば、彼らは過去という厚みを持たない「薄っぺら」な人間として提示されていて、このこと、つまり、彼らの内面を描かないこともまた、この映画のスピード(感)に大いなる貢献を果たしていて、これがまた、マジメな観客の神経を少なからず逆撫でする原因ともなっているはずだ。世の大半のひとは、人間の目には見えぬ深遠な内面を描いてこそ、文学であり映画であり演劇でありと思っているからである。

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