竹内銃一郎のキノG語録

まじめなおふざけ野郎ども  マグリットVSトータルテンボス②2015.07.22

本棚から、マグリットを特集した「芸術新潮」をようやく探し出す。竹内は相変わらずいい加減なことを書いている。昨日、「30年ほど前に …」と書いたが、1998年5月号だから、まだ20年も経っていない。ま、わたしにとっては、というか、若いひとなら余計に、20年前も30年前も大昔であることに変わりはない。

美術評論家の若桑みどりさんが、「マグリットを教えましょう」というタイトルで、実に丁寧で分かりやすい「マグリット案内」を書いている。例えば、マグリット批判としてよく言われる、陳腐であるとか通俗的だとかについて、「深遠な芸術が価値が高いなんて誰が決めたんだと私は問いたい」とか。

背景に青い空に白い雲を描くのはマグリットの得意技で、それらは、よく見れば微妙な違いがあるのかもしれないが、ほとんどコピーしたように見える。また、なんとかって絵の打ち寄せる波は誰やらの絵から拝借したものと図録に書いてあった。言うなれば、彼はコピーの名人だ。しかしそれは、シュルレアリスムの方法のひとつである、コラージュ(論理的日常的な文脈では無関係と思われる素材を一同に集めて構成する方法)だと考えれば、当然のことながら、それを非難する方がおバカさんなのだ。ことほど左様に(?)、マグリットの絵は、漫才に接するように、お気軽に見ればいいのだ。

ところで、昨日、トータルテンボスの漫才はベケットを思わせると書いたが、むろん、ベケットの名を出して彼らの漫才を<権威づけ>したかったからではない。そうではなくて、漫才(=親しいふたりの立ち話)を突き詰めていくと、必然的にベケット的(チェーホフ的と言ってもいいのだが)になると、そういうことが言いたかったのだ。昨日出演していた多くの若手漫才師たちが概ね退屈なのは、立ち話に我慢出来ず、笑いほしさに、いたずらに動き回ってしまうからだ。センターマイクを無視して動き回ることを許される漫才師は、ザ・ぼんちだけだ。

そう言えば。前回の戯曲講座で、チェーホフのいわゆる四大劇の冒頭だけを読んでもらい、これらの共通点は? と聞くと、講座生諸君の幾人かが、一方的に誰かが長々と喋ってる、と答えた。確かに、「かもめ」を除いて、他の3作はみんなそのようになっている。その様は、まるでザ・ぼんちのおさむちゃんのようだ。そう、「ワーニャ」の冒頭のアーストロフは、おさむちゃんを彷彿とさせればベリーグッド! なのだ。

一覧