竹内銃一郎のキノG語録

「R1」に物申す、偉そうですが2013.02.13

R-1グランプリを見る。途中で眠くなり何人かは見逃したが。
ひとり芸は難しい。同じひとり芸でも落語には決まった形があり、とりわけ古典であれば練られた台本と優れた先達もいるので、困ったときにはそれに学び、そこへ帰ればいいのだ。また、物真似には、言うまでもなく、真似る対象(モデル)があり、目標を設定しやすい。
昨日出ていた人々は、それぞれいろんなアイデアをひねり出してやっていたのだけれど、どこがなにが頂点なのかを見定めにくいので、評価という点でも、結局変なヤツ、おかしなヤツが勝ち上がる仕組みになっている。
変だのおかしいだのだけでは、当然のように賞味期限は限られている。いわゆる一発屋にひとり芸が多いのはそのためだ。(そういえば、先週の日曜日、「笑点」にヒロシが出ていて、笑った。いわゆる自虐ネタだから、観客の優越感(?)をくすぐってくれるわけですね。)
漫才が比較的長続きするのは、相互批評が可能だからだ。あそこでなぜ突っ込まなかったのか、もっとぼけてくれよ、等々。むろん、それが仲たがい・コンビ別れの原因にもなるわけだが。
漫才は、誰しもがいうことだけれど、ふたりの立ち話を基本としている。だから極端な話、観客の笑いなどなくても成立するし、極端な話、客なんかいなくても成立する。落語もそう。物真似もそう。
しかし、昨日出ていた連中の出し物は、そうではない。笑ってくれるひとがいなければ成立しない。ひとりで立っていることが出来ないという意味で、とても難しい。自分にも覚えがあるが、独創的なナンセンスを考え出すには体力がいる。長く続けるのは至難の業なのだ。
最後の組に、アンドーなんとかって言う、ブレークダンスみたいなことをして形態模写をする芸人が出てきた。凄いことを考えるヤツがいるもんだと感心したが、しかし、そもそもお笑いなどというものは、感心などさせてはいけないのだ。だから、いっこく堂はあれこれ手を変え品を変えて、自らを進化すべく悪戦苦闘を重ねているのだ。アンドー某が決勝戦でしくじったのは、二度目で感心の程度が低くなってしまったのと、よく見ればあまり似ていないのだ。対象の名が明らかにされないと誰だか分からない。致命的と思われたのは談志でまったく似ていなかった。
物真似は、もちろん対象に似ていなければいけないわけだけれど、肝心なのは、面白いということで、誰の真似をしているのか分からなくても、あるいは、対象についてなんにも知らないひとでも、笑えないとダメなのだ。
ひとり芸ならなんでもいいというのなら、コロッケが出れば圧勝すると思うけれど、実は昨日、あんたが大賞!とわたしが思ったのは、同じ時間帯、NHKの歌謡番組に出ていた千昌夫だ。久しぶりに見るこの男、前後を知らないから、それがギャグなのかどうなのかが分からないけれど、今時そんな、というような古い型のメガネをかけ、顔全体はヒゲなのかドーランのせいなのか妙に黒々としていて、例えて言えば、遠い地方で催されたのど自慢に出てきたドン臭いおじさんみたいで、なのに、歌のうまさが並じゃないから、そのあまりのギャップが爆笑ものだったのだ。

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