竹内銃一郎のキノG語録

「許されざる者」は許されざるリメイクだ2013.09.19

「許されざる者」のリメーク版を見る。
出演者たちの公開前の、この作品がいかに素晴らしいか、などという話はもちろん宣伝のためで、だから、否定的な言葉が出るはずがない。分かってはいたけれど、世界のケン・ワタナベとか、まんざらお馬鹿でもなさそうな佐藤浩市等々から、映画に関する大賛辞を聞かされれば、ほんとに? と、首をかしげつつ、わたしのようなスレッカラシ爺だって映画館に足を運んでしまうわけですよ。
監督はあの「悪人」を撮ったひと。わたしは以前にこのブログでも書いたが、これはしょうもない映画だと思ったが、ケン・ワタナベは、この映画に出演していた柄本(明)さんや麒麟女史から、素晴らしい監督と聞いて「許されざる者」への出演を決めたのだという。それ、ほんとにほんと?
別にオリジナルと違うからどうこう言うのではない。そんな義理立てはいらないのだ。
わたしが書いた戯曲を、わたし以外のひとが演出をする。むろん、わたしにはわたしなりのイメージがあって書いたわけだが、わたしのイメージと違うからと言って腹は立てない。腹がたつのは、単純に面白くないからで(ひどいときには、書いた当人でさえ話がよく分からないことがある)、むしろ、えっ、こんなことになるの? とわたしが想像だにしなかったものを見せてくれたら、わたしは大大満足をするのだ。
対象になっている映画は、オリジナルのストーリーをほぼなぞっているが、むろん、舞台をアメリカから日本に移しているし、それに伴ってところどころが微妙に違う。その微妙な違い方が、乱暴な表現になるが、馬鹿っぽいのだ。もう少し優しくいえば、デリカシーがない、スマートじゃない。
話の内容についてはなにも知らずに接したので、最初字幕で、時代は明治になったばかりの頃であり、官軍に負けた幕府側の武士達は追われ追われて雪深い北海道まで逃れたが……と示された時には、ああ、移し変えに苦労したんだなあと、シナリオライター(監督自身)に同情もしたのだった。
が、冒頭の、深い雪の中を馬が走り、鉄砲が撃たれ、兵士達が血まみれになって倒れ、等々の映像がいかにもチープで、大丈夫かなと思ったりもした。
そのチープな感じ、あるいはルーズといってもいいのかも知れないが、物語が進むに従って、どんどん疑いようのないものになっていく。
5、6人いる娼婦たちのリーダー格を演じる小池栄子は、かなり上等な女優さんと思っていたが、これがまことに残念なことに。彼女も含め、女性達が不幸せそうに見えない。これは致命的なことだと思われる。
不幸そうだ、可哀そうだと観客に思わせないと、彼女達がお金を集めて、殺し屋を雇うことの<正当性>が担保されない。歌舞伎町のキャバクラの馬鹿ホステスがアタマきたから一丁ヤキを入れてくれる? なんて話とは違うのだ。でも、その程度の話になってる。小池栄子、単純に血色がよ過ぎて…
最悪なのは、佐藤浩市演じる役どころ。とにかく、なにかといえば理不尽かつ過剰な暴力を振るう。オリジナルでも、その役にあたる保安官は暴力を振るうのだが(おお、誰が演じたか。名高い名優の名前が…!)、それについては明解な大義名分があって、彼は管轄下にある街の治安を体を張ってでも絶対に守る、だからその使命を果たすためには理不尽な暴力だって振るうのだ。リメイク版には、この大義名分がない。浩市氏は、ただのサディストにしか見えない。
そもそも舞台になってる街がどんな街だかさっぱり分からない。どういう人々が住んでいるのか、どこからが「この街」なのかが分からないから、この街に銃や刀を持ち込むべからずと言われたって、なにがなんだか…
この映画は基本的に暗い。だからこそ、監督もシナリオライターも、ところどころに笑いをユーモラスな場面・やりとりを散りばめているのだが、リメイク版にはそれが微塵も感じられない。
保安官も、自力で家を作っていて、それがちょっとしたことで壊れてしまって呆然とする、みたいな、彼のチャーミングな側面も描かれていて、だから、イーストウッドに殺されてしまうところでも、彼は自分の仕事に忠実なだけだったのに…と哀れを誘うのである。
この監督はなにを描こうとしたのか。アイヌの人々が出てきて、日本人に理不尽な扱いを受ける。先の娼婦達も、自分たちは牛や馬と同じなのか、と憤るシーンがある。差別? いまもなおある差別の現実を描きたいと、そういうことなのか。
オリジナルにあってリメイクにないもの。詩情ってやつですね。
この監督はTVCMを撮っていたひとなのだろうか。意味のないアップが多用されている。どうだ、分かるか、みたいな。「悪人」もそうだったが、情緒過多。それが結果として、10秒で終わらせるカットが1分に、3分で片付けられるシーンが10分になったりしている。ノロイ、ダサイ。
殺し屋3人組の中の若者の殺しのシーン。相手がひそんでる(そんな感じ皆無だが)家の敷地内に忍び込み、目指す相手がトイレで用をたしてるところを殺すというのは、どちらも同じだが、まあ、リメイク版の手際の悪さときたら! 映画の監督ってどういうことをするひとなの? どういう監督が腕があるっていえるの? なんて思う人は、両作のこのシーンを見比べたらいい。多分、誰が見てもオリジナルの方にはドキドキして、リメイクの方にはなにチンタラしてるの? と思うはずで、それが監督の腕の差。
そもそもの話が分からない。オリジナルの方は、最終的に仕事のために置いてきた子供達が待ってる家に、主人公は帰るのだけれど、リメイクはそうならない。アットホームなハッピーエンド(そうじゃないけど)を嫌った? なぜ? その代わりに用意したのがあのホッタラカシなラストシーン? なに、それ?
実質的なラストシーンである、格闘シーン。馬鹿かと思うほど長い。まだやるの? と、悪いと思いながら何度も舌打ちしてしまった。
そもそもの設定が間違ってる。女郎屋の建物がオリジナルに比べると大きすぎて、だけど、オリジナルのように男達で埋めたいと思うものだから、男達がいっぱいいて、だから、主人公がある程度のカタをつけるためには時間がかかると、こういうことになっているのだ。
大量に流される血に、いったいどういう意味があるのか。なにもない。え、無意味に流される血の無意味さを描きたかった? なにをかいわんやですな。
この映画がいかに杜撰なものか、書き出せばまだまだあってキリがない。
これを言ったらおしまいよ、と思いつつ書くが、時代設定はともかく、舞台を北海道にもってったのが大間違いです。
雪しかないじゃん、雪、ちゃんと撮れないじゃん。

イーストウッドの正直な感想を知りたいが、まあ、無理ですね。

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