竹内銃一郎のキノG語録

戯れに徹底するだけじゃダメなのか。 マームとジプシーの「cocoon」を見る?2016.02.04

録画しておいたマームとジプシーの「cocoon」を見る。いや、見たとは言えないな。

わたしはせっかちなので、本は最初の数頁を読んで、映画や芝居は10分ほど見て、これ以上つきあっても面白くなりそうもないと思ったら、そこでやめてしまう。「cocoon」もかなり我慢して10分つきあったが、もういいわとそれ以後は早送り。三度ほど、コレは? と思ったところを普通の速度に戻してそれぞれ30秒ほど見たのだが、やっぱりわたしの興を惹くものでなく。結局、2時間ほどありそうな芝居を、20分足らずで見てしまった。いや、見てないのだけど。だから、以下に書くことは、ほとんど勝手な推測・憶測をもとにしたものになるのだが。

物語は、小学生の少女たち(推定)が、なにかをきっかけに(ちゃんと見ていないから分からない)、戦時下の沖縄(推定)にタイムスリップし、そこで悲惨にして過酷な体験をして、現在に戻る、というもの。

素舞台に近いシンプルなセットの舞台上を、出演者たちが椅子や木枠やらを手にし、それらを、物語が指示する空間にセッティングしながら劇を進行するスタイルは、その昔見たピーター・ブルックの「テンペスト」等のヨーロッパの芝居によく見るもので(今はどうなってるか知らない)、明らかにそれに影響された野田秀樹の芝居も同様(今はどうなってるか知らない)、さらに言えば、今も昔も高校演劇ではよく見かけるものだ。だから、先のピーター・ブルックの芝居を見た時、なんだ、これは高校演劇じゃないかと呆れ、そして、それを頭を禿散らかしたおっさんたちがマジメに喜々として演じているのを見て、途中から笑いが止まらなくなったのだった。

映像や照明を駆使しているから、高校演劇と比べたら格段にお金はかかっているはずだが、にもかかわらず「高校演劇」じゃないかと思ったのは、出演者の演技がいかにも素人っぽかったからだ。あるいは、それは演出家が意図したことかも知れないのだが。でも。始まって10分以上が経過しても、もっと見たいと思わせた、もう少し斬新で刺激的な「高校演劇」を、わたしは何本も見たことがあるような気がする。

印象に残ったのは、冒頭で長台詞を語る若い女優さんの顔。照明のあたりの加減なのかもしれないが、恐ろしいほどの無表情で、表皮を一枚めくると、そこには顔などないのではないかと思えるような。

そのように感じたのは、2、3日前に見た『三里塚に生きる』という2014年に公開されたドキュメンタリー映画に登場する数多の顔の<実在感>に、圧倒されてしまったせいかも知れない。

この数年の間に台頭してきた若い人たちの芝居をわたしはほとんど(まったく?)見ていないのだが、それらの多くは、この芝居と同様、戦争や東北の震災等の<大きくてゆるがせに出来ない大事>を素材にしているらしい。おそらくそれはと、この意地悪にして偏屈な糞爺は推測する。本当は、それらは彼らにとってさほどの大事ではなく、自らの生の寄る辺なさを覆う隠れ蓑、都合のいいとりあえずのたどり着く岸辺に過ぎないのではないか。さらには、俳優たちの戯れを見せるだけでは芝居にならないのではないかという恐れ・躊躇いが、そのような真っ当すぎる王道的題材を選択させているのではないか、とも。

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