竹内銃一郎のキノG語録

救いの解離、危機を回避するための。 『しかたのない水』を読む②2016.04.07

ひとは誰も、癒しがたい傷や、言い知れぬ不安や、ビョー的とも言えそうな性癖を隠し持って日々を生きている。だから、『しかたのない水』の登場人物たちが格別に変わったひとたちだとは思わない。あるいはこうも言える。

ひとは誰も、常識(=多数派の論理・倫理)という一本のレールの上を走っているわけではなく、常識(一般性)と非常識(特殊性)という2本のレールに両足を乗せて生きている。非常識・特殊性の方に重心が傾きすぎるとレールから外れて、そういう状態にあるひとを、世間では病人とか犯罪者と呼ぶのだ。むろん、常識・一般性の方に傾き過ぎるひと、即ち、他人の不倫等を過剰に激しく非難するひとのように、自らが善人であることに疑いを持たないひともまた、ある種の病人に違いなく、さらに言えば、2本のレールから外れることなく人生を全うするひとは、絶対的少数者(=特殊中の特殊)という意味で、これまた立派な病人と言えよう。早い話、ひとはみな病人・犯罪者で、それを自覚してるかしていないか、顕在化するかしないかの違いしかないのだ。

『しかたのない水』の最後に置かれた「フラメンコとべつの名前」には、本物の、医学的には間違いなく「病人」のハンコを押されるはずの女性が登場する。ここでの主人公は、フィットネスクラブの責任者を任せられている男だが、彼の妻で、同クラブでフラメンコを教えていた女性が、その「病人」である。彼女は、タイトルにもあるように、本来の、戸籍にある名前である「冴美」を捨て、ある日突然、「勝子」になってしまう。男には「勝子」という名前に思い当たることはなく、彼女もその理由を語らない。本来の名前を捨てたということは、かっての「冴美」に関するすべてを捨ててしまったということで、その日から彼女は、クラブにも当然のように顔を出さなくなり、男もそういう裏事情を他に明らかに出来ないので、この小説の各篇で、「冴美先生はいったいどうしたのか?」と、会員たちの憶測が折に触れ繰り返されることになる。

以前にも触れた、精神科医の中井久夫の『徴候・記憶・外傷』に、おそらく、この<冴美→勝子>について考えるヒントになる記述がある。ひとは時として、「救いの解離」をなすといい、その例として、ライオンに食べられかけて助かったひとについて、次のように語っている。

ライオンに食べられて死ぬのはなんとも悲惨な死に方のように思ってしまいますが、本人の言うところでは恍惚としてむしろ快感に近いものすらあったそうです。そしてライオンに食べられている自分が見えたといいます。これは体外離脱による自己視体験です。これは極端な場合に思えますが、私たちの祖先は動物に食べられて死ぬのが普通だという時代を経てきているはずです。

要するに、ひとは絶対的な危機に瀕すると、その危機感(がもたらす心的苦痛)を遠ざけるために、自己を捨てる能力があるという話だと思われるが、この部分の後にもきわめて興味深いことが語られている。とりわけ、「演技は正常な解離です。俳優は非常に精緻な意識性を以て解離を手玉にとっているようにみえます。自己像幻視は解離でも稀なものですが、能の達人は「離見の見」といっておのれの舞う姿を舞台に上がる度に見ます」という部分に、なるほどと頷く。もちろん、ここで語られているような卓越した技量の持ち主が、現実にいるのかどうかは別にして。

話を元に戻そう。小説の中では明らかにされてないが、おそらく「冴美」には心的かつ身体的な、自らの死を予感させるような、危機的状況があり、それを回避するために、「救いの解離」が選択され(もちろん無意識的に)、他へと移行したのだ。その結果選ばれた名前が「勝子」とは! なんとも泣けて、笑えるではないか。

寄り道したために、また長くなってしまった。もう少し書きたいことがあるので、続きを次回に。

 

 

 

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