竹内銃一郎のキノG語録

浪花千栄子、再び2014.03.12

ようやく戦闘モードに。誰が? わたしです。闘う? 誰と? いや、ホンを書ける態勢に入りつつあるということですが。このブログを連日書くことで、ホンが書ける肩を作ってると、こういうことです。
まず、昨日書いたことの訂正とお詫びを。
田向正建ではなく、正しくは、正健でした。また、40代半ばで早世というのも間違いで、亡くなられたのは2010年、享年73歳。「とめてくれるな、おっ母さん」は、1969年公開。ウィキペディアで確認したのですが、そういえばそう、大河ドラマも2本書いてるし、朝ドラは「雲のじゅうたん」以外にも、あの辰巳琢郎氏も出ていた、日本映画の創成期を描いた「ロマンス」も書いておられた。TVのシナリオライターとしてのデヴュー作「冬の旅」は、毎週見ていた上等なドラマだった。ああ、なんという数々のミステーク。すみません。
それにしても、わたしの記憶力のいい加減なこと。この映画で唯一記憶にあったのは、3人組が対立するやくざ達と乱闘になり、そこへ機動隊が割って入って、そこかしこで激しい殴り合い、そのバックに、当時流行ってたカルメン・マキの「時には母のない子のように」(作詞 寺山修司)の甘く切ないメロディが流れ、乱闘は果てしなく延々続く …というシーンだったのですが、これが! 機動隊は乱入しないし、乱闘に参加している人数も5、6人と実に地味で、なおかつ、フルコーラス流れているはずだった「時には …」も、ワンコーラス目の途中で切られてたという …
実にわたしはこの40年余、幻のシーンを追いかけてこの映画との再会を夢見ていたのだぁ!
ついでに。浪花千栄子は、多くの映画に出演していますが、「続悪名」のやくざの女親分が凄い。大体は、こすっからい、意地の悪い関西のあばはんというのがこのひとの役どころで、その代表作は「丼池」。この映画、当時の芸達者が勢ぞろいしていて、飽きさせない。ちょっと後味の悪い話ではありますが。あ、この映画は以前にも紹介したような。
で、「続悪名」の浪花千栄子。怖い、もの凄く怖い。主役の勝新太郎をボコボコにしてしまう。そのリアリティたるや、背筋も凍るほどで …!
そして、昨日書いたことの補足を。
改めて語ることでもないのだが。表現のリアリティは、<現実の再現>から生まれるものではない。池内氏の表現を借りれば、「1ミリそれた」ところのものに、わたしたちはリアリティを感じるのだ。
わたしたちは、例えば、ドキュメンタリーなどで見る、歳を重ねた漁師の深くしわが刻まれた横顔に接するとドキッとする。それは、日常ではあまり凝視したことのない顔だからだ。もちろん、ドラマなどではとんとお目にかからない顔。見慣れてないからドキッとして、ああ、年齢を重ねたひとの顔とはこういうもので、こういう顔こそ本来の人間の顔なのだと、改めて思うのではないか。
よく考えると、池内氏の心胆を寒からしめたのは、映像ではなく、ラジオから聞こえた声なのだ。それも、雑音混じりの。浪花千栄子も凄いが、池内氏も凄い。往年のプロ野球解説者小西得郎の表現を借りれば、「打ちも打ったり、取りも取ったり」である。ともに名手、ということ。
「1ミリそれる」とは、ナイフで1ミリ自分のからだを傷つける、ということだ。だから、真摯な俳優や歌い手や芸人は満身創痍で、行くところまで行くとその痛みに耐え切れず、酒やクスリに溺れてボロボロになってしまうのだ。プレスリーやマイケル・ジャクソンがいい例で。客は無責任だからもっともっとと囃し立てるから、それに応えようとして、もっともっとと傷口を増やし、深くし、そしてその挙句 ……
そうか。わたし(たち)が深くしわが刻まれた横顔にハッとするのは、それがまるで彫刻刀でえぐられたものであるかのように感じるからなのだ。
昨日は3・11。この日を忘れるなと言われても、そういうメディアが、忘れるように仕向けてるとしか思えない。いつか見た映像、何度も耳にしたことばを繰り返し繰り返し、洪水のように流し続ける。だから、ひとはもう分かったよ、と目を閉じ、耳を塞ぎ、そっぽを向いてしまうのだ。
そう。わたしたちは、いや、少なくともわたしは、カメラの前でマイクに向かってぺらぺら喋るひとの言葉なんか聞きたいと思わない。そういうひとが紛れもなく善い人であることは分かるけれど。深く心に傷をおってしまったひとは、そんなことはしない。だから、そういうひとのことばこそ聞きたいのだが、そういうひとからことばを引き出すのは面倒だから、メディアはあたりさわりのない善き人をカメラの前に立たせるのだ。
たった10秒の沈黙も許さない、沈黙を過剰に恐れるメディア。それがテレビ。
10年以上も前のこと。わたしが台本を書いたお芝居の通し稽古を見せてもらったあとのこと。演出家氏が率直な感想を聞きたいという。わたしはあとで演出家氏とふたりきりになったときに話しますと言ったのだが、氏は俳優達も聞きたがってるしという。本当に思ったことを言っていいですかと念を押すと、よほど芝居の出来に自信があったのだろう、構いませんよというので、あれやこれやと1時間半ほど、かなり厳しい感想を伝える。と、とりわけ厳しい感想になった主演女優さん、半べそ状態で、「ひとつでいいからわたしのよかったところも言って下さい。そうじゃないとわたし、舞台に立てません」という。わたし、しばし考え、そして、「申し訳ないけど、思い当たりません」と伝える。ま、優しさ、思いやりの欠片もない鬼みたいなヤツと思われたでしょうが、しょうがない、ほんとになにひとつなかったんだから。でも、その女優さん、今では映像に舞台に大活躍で、なにか賞を貰ったのではなかったか。
え、わたしの厳しいことばが糧になった? 全然。その時と同じ芝居をやってます。ま、テレビでしか見たことないですが。相変わらず口八丁手八丁の、俗にいうところの達者な演技を、要するに、みんなが安心できる見慣れた演技を自家薬籠中のものにして、ご披露しておられます、多分、なんの疑問もためらいもなく。きっと、うちの専攻の学生諸君も彼女のような演技を、目指すモデルにするんでしょうな。だって、多くのひとはそれがいいと支持してるのだもの。悪貨は良貨を駆逐する、ですか。ああ、メンド臭ェ。
太田省吾氏はいう、「舞台とは、(何事かを)なす場ではなく、(ひとして)ある場ではないか」と。乱暴に翻訳すれば、俳優は黙ってなにもせずそこに立ってろ、それがきみの仕事だ、ということですね。
賛成!

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