竹内銃一郎のキノG語録

テクニック+アイデア=スピード2014.07.11

ワールドカップも決勝戦を残すのみとなった。
ひと試合まるまる全部見たのは、日本VSギリシャのみ。あとは、ダイジェストとそれから、先週先々週は夜11時頃に寝て朝5時6時に起きるという、聖人君子みたいな生活(?)をしていた関係で、早朝TV放映されていた数試合の後半戦を見た。
アルゼンチンVSイランが印象に残っている。試合を決めたメッシの神業シュートには驚いたが、なによりイランの健闘が光った。イランはFIFAランキングでは日本より確か2つくらい上位で、はあ? と思っていたら、ランキングに偽りなし。そのカウンター攻撃の迫力に目を見張った。
前述したように、わたしが見た試合は限られたものだが、もっとも感動したのは、ドイツVSアルジェリア戦。
延長戦後半のアディショナルタイムでドイツに2点目を叩き込まれ、残された時間もあと2,3分。アルジェリアの選手達は明らかに疲労困憊と見え、精神的にもボキボキに折れてしまったはずと思いきや、1点を入れてなお反撃の姿勢を見せて、その不屈の闘志に感動したのだ。
さすがに、フランス相手に長く反植民地運動を戦い抜いた国! 考えてみれば、イランの選手達も生まれて以来、ずっと戦時下で育っているのだ。
ひるがえって、日本・日本人はといえば。戦時中は「鬼畜米英」を合言葉に戦っていたのに、敗戦となった途端にあれはなにかの間違いだったと思ったのか思わなかったのか、「ようこそアメリカ」「ギブ・ミー・チョコレート」「民主主義万歳」という、アッと驚く手のひら返し。
サッカーは、恐ろしいほど国民性を反映するスポーツだ。
それはともかく。
サッカーは演劇ととても似ている。戯曲を書いているときも、稽古の現場でも、ひとの戯曲や舞台を読み・見ていても、そのことを強く実感する。
ともに必要なのは、テクニックとアイデアで、どちらが欠けていても用をなさない。
サッカー(選手)ならば、たとえ高度なヒールパスを駆使出来ても、それをここで、というアイデアがなければそんなものは宝の持ち腐れで、また、幾らアッと驚くようなアイデアを持っていても、それを具体化出来る技術がなければ、これまた絵に描いた餅でしかない。
読んでカッタルイと思う戯曲は、結局このふたつのどちらか、あるいは両方を欠いているのだ。
あれはどこの国だったか。自陣から4、5本のパスで一気にシュートまで持っていったチームがあって、その信じられぬスピード感にわたしは思わず、「おお!」を声をあげてしまったが。
カッタルイ戯曲、そして舞台は、日本のサッカーのように、一見華麗にパスをつないでいるようで、しかし、全然前に進まず、なかなかシュートに持ち込めず、もたもたしてる間にボールを敵に奪われたり、シュートを打っても枠内にいかない。
「Moon guitar」、ただいま6割。サッカーでいえば、センターラインを越えて、いよいよ敵陣に攻め入らんか、というところ。
用意していたプロットの、基本的なストーリーの流れに沿って書いてはいるが、細部は大きく変わって、書いてるわたし自身が驚いている。
ま、これはいつものことだし、そういう心変わりというのか、新しい発見(=アイデアが生まれる)があるから、こんな孤独で辛い作業にも耐えられるのだ。
大学の戯曲の講義ではいつも、自分の知らないことを書けと言っていた。
もちろん、知らないことは書けないから扱う対象を調べなければいけない。そういう面倒な作業を繰り返す過程で知らない世界と出会い、そして、書き上げた後、書く前と書いたあとでは、以前の自分とは違ったように、成長したように感じられる、そういうものを書いてほしいと言っていた。
書いているといつも、自分はほんとになにも知らないなと、われながら呆れはてる。
今回もそうだ。タイトルになってる月琴なんて、その存在さえ知らなかったし、中国・中国人のことも、闇社会のことも、重要な小道具になっているけん玉のことだって、ほとんどなにも知らなかったのだ。
かの健さんはTVのインタヴューで、これは自分が勝手に思ってるだけかも知れませんが、と前置きをして、自分は映画の中でずっと「いい人間」を演じてきた。そのお陰で、昔の自分より少しまともな人間になったような気がする、と語っていた。
いま、それを思い出した。
むかし自分が書いたものを読み返すと(ほとんどしないが)、とても恥ずかしい。語られていることの青臭さはしょうがないとして、やっぱりテクニックが稚拙なのだ。いや、テクニックと呼べないものしか持ち合わせていなかった。それが分かるので恥ずかしいのだ。
それが分かる、というのは多少なりとも進歩しているということだろう。このことが少なからず、いま書いている支えになっている。
昔は、テクニックのないところは、勢いで乗り越えていた。勢い=スピードと、勘違いもしていた。
いまのわたしは、そういうことが出来なくなっている。勢いがなくなったのではなく、勢いだけで書いてしまう無謀さを、よしとしなくなったのだ。
時々、「昔の竹内の方が面白かった」「最近の竹内は竹内らしさがなくなった」という声を聞く。もちろん、また聞きなのだが。ひとはそれぞれだし、そういうひとの大半は、わたしの近作にほとんど触れずに言っているか、それこそ昔のわたしのように、勢い=スピードと勘違いしているのだろう。
昔から今に至るまでずっと、自作の中では、いちばん新しい作品が代表作だと思っている。
健さんの模倣をして言えば、50数本を書き、70~80の現場を踏む中で、前よりは多少はましな腕になってるような気がするからである。
ところで「Moon guitar」。S2あたりでは、なんだか吉本新喜劇が侵入してるみたいだけど、と思っていたら、書き進めていくうちに、映画「アメリカの友人」ではブルーノ・ガンツが演じている主人公が、どんどん健さんテイストになってきて ……
吉本VS高倉健!!
ま、このミスマッチ感が私的には、ナイス! と思ってはいるのですが。

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