竹内銃一郎のキノG語録

この星は、海洋惑星2014.08.22

8月も終盤。子供の頃はこの時期になるといつも、夏休みの宿題をこなすのに大わらわだった。
絵日記には苦労した。わたしは文字通りの三日坊主だったので、休みに入った最初の2,3日だけ書いてあとは白紙。だからまず、一ケ月分の新聞を取り出してその日の天気を確認。それから中身を書くわけだが、そんなもん、過ぎたことは忘れるというのが子供の頃からのわたしの流儀だから、あることないことというより、ありそうなことをひねり出しでっち上げ。
もしかしたら、あの嘘八百を書き連ねた夏休みの絵日記が、わたしの創作活動の原点なのかもしれない。
自由研究みたいなものは、ほとんどやった記憶がない。やらなくても許された。というか、先生にそれで怒られた記憶がない。なぜ? ま、優等生だったからでしょうか? わたしは多くの人に甘やかされて育ってしまったのだ。
夏休みの自由研究というと、今でも鮮明に覚えていることがある。多分、4年生だったと思う。近所に住んでいて遊び仲間だったKが、凄いものを作った。時代劇のカツラ。月代(さかやき)が伸びたヤクザもんのそれを、室内用のほうきの先を集めて作ったのだ。ちゃんと被れた。いったいどのようにしてそんなものを作る知識・技術を手に入れたのか分からないが、それは誰もがへーとかほーとか感嘆の声を上げる見事なものだった。
先週のお盆に帰省した。昔は、墓参りなどということにほとんど関心がなかったというか、その必要性(?)を認めてなかったが、10数年前に母が亡くなり、その2年後に弟も亡くなり、ということがあって、それからはほぼ毎年、実家に帰ってお参りしている。
実家に帰ると確かにホッとする。でも、そのホッとしている自分に違和感があるというのか。多分、わたしはザワザワしている状況に身をおいている状態の方が好きなのだ。
河野哲也『境界の現象学』読了。この本の帯には、以下の惹句が書かれている。
皮膚、家、共同体、国家。幾層もの境界を徹底的に問い直し、まったく新しい世界のつながり方を提示する。
まったく新しいかどうかはともかく、幾度もなるほどと頷かされた。
最終章「海洋惑星とレジリエンス」はこんな文章から始まる。

 
私たちの住む星が変化して止まない海洋惑星であるとすれば、私たちを取り囲む境界はどうなるのだろうか。境界を引くことには意味がなく、境界の内側の安定性や安全、ヘスティアのもたらす安らぎは、求めても得られず、求めるべきでもない幻想なのだろうか。家がもたらすと考えられている個人の生命、健康、安全、安定、プライバシーといったもっとも基本的な人権は、どのように保障され、ケアされるのだろうか。
私たちが問うべきは、これらの人間にとって重要な条件は、何かから囲い込むことによって保障されるのかということである。私たちの存在は何かの内側にいることによって安堵されるものだろうか。

 
台風や大雨の影響による各地の惨事。ニュースなどで、家が土砂で埋まり、崩れ、あるいは道路が川のようになっている光景を目の当たりにすると、前述の言葉がことさらにリアリティをもって迫ってくる。

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