竹内銃一郎のキノG語録

要は距離感。  「チェーホフ流」解題32017.12.23

映画や小説や芝居において、ストーリーがさほど重要なものではないと考えていることは、これまでも繰り返し書いてきた。チェーホフのいわゆる四大劇もストーリーだけを取り出せば、通俗的なメロドラマとさほど変わるものではない。ありふれたストーリーをいかなる視線・角度から提示するのか、どのようにしてサスペンスフルな時間を作り・持続させるのか。より具体的に言うならば、ドラマを成立させるための諸要素、対立、衝突、和解、出会い、別離、等々をどのように組み合わせるのか。これを別の観点で言えば、ひと・もの・ことの距離をどうとるのか、ということになる。最終的に問われるのはむろん、その都度どのような言葉=台詞を選ぶのか、ということになろう。これらが「よくある話」と差別化するための方法である。チェーホフは「非情の作家」と呼ばれるが、その非情さとは、何回か前に鈴木忠志さんの言として紹介した「バカバカしいところが人間の哀しさ」と同意語であり、要するに、他の多くの人々とはひと・もの・こととの距離感の違いが、チェーホフのチェーホフたる所以だ。

高校演劇部の夏合宿が途中で打ち切られるのは、顧問のモリオカとヴェルシーニン役のサチコが一線を越えた関係にあったことが、サチコの稽古中の流産によって明らかになってしまったからだ。これだけを取り出せば、「まあ、なんて通俗的な」ということになるが、自分の妊娠に気づいたサチコの現在の追い詰められた心境が、「なにごとも終わりがあります。われわれはこうしてお別れすることになりました」という、稽古中のヴェルシーニンの台詞に重ねて語られるという仕掛けが、物語の通俗性を遠ざけているかに思える。

この劇の進行役とも言えるユキコにとってサチコは高校入学以来の親友で、にもかかわらず、彼女と顧問の関係がそこまで行っていたことを知らずにいた自分、彼女のためになにも出来なかった自分が情けなく、それで、秋の大会に出場するかどうか、出場するとしたら演目はどうするかという話し合いの最中、「サチコのいない三人姉妹なんてわたし出来ない!」と叫んで、自分の膝上にあった舞台装置の模型を床に叩きつけて壊してしまうのだ。

ユキコとサチコの共通の友人であるトモコは陸上部員だが、膝を痛めているため練習も出来ず、それで、彼女もお手伝いとして合宿に参加している。全国レベルのハードル選手であるトモコから見ると、演劇部の稽古のぬるさは我慢がならず苛立ちを覚えるのだが、一方で、自暴自棄になりそうな自分の癒しの場になっている。いけない恋愛に苦悩するサチコ、もう二度と晴れ舞台に立つことは不可能ではないかと不安を抱えるトモコ。そんなふたりを目の当たりにしていると、さしたる苦悩も不安もないユキコは自分があまりに惨めに思え、自分には双子の姉がいたが、小さい時に海で溺れて死んでしまった、とふたりに嘘をついている。この作品を改めて読み直してみると、三人の関係の距離感の伸び縮みが、うまく操作されていて好ましく。

場面は50年前の合宿先から、ユキコのひとり住まいの家へ。ユキコは、いまはブラジルに住んでいるサチコからの手紙を読んでいる。そこには、今年16になる孫娘が陸上のハードルをやっていて、先日、地区大会でトップでゴールを駆け抜ける彼女を見て、あの夏の終わりに交通事故で亡くなったトモコのことを思い出し、涙が止まらなくなったと書いてある。そして、「やがて時がたつと、~みんな忘れられてしまう」」という「三人姉妹」の最後の台詞を引いて、でもわたしは、あの時のみんなの顔も声も、いまも覚えています、と結ぶ。最後に、「2045年8月15日 コダマユキコ様 サチコ・マルチネス」と読み上げる声にかぶって、当時、稽古前に発声練習としてみんなでいつも歌っていた「天城越え」がどこかから聞こえてきて、ユキコの背後に、いつの間にかあの頃のメンバーの姿が甦っている。

思い出を50年前のものとしたのは、フィクションの強度を高めたかったからだ。つまり、ユキコ等の70歳間近という現在年齢が、これを書いた当時のわたしには、ほとんどリアリティのないものとして考えられていたのだ。ほぼ同年齢に設定した、「あたま山心中」のミチルはもとより、ほんの数年前に書いた「満ちる」の鬼才・吉田健一ですら、同様に考えていたのだから、我ながら呆れるというかなんというか。

 

 

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