竹内銃一郎のキノG語録

P・クレーの誘惑  「タニマラ」メモ⑥2018.04.02

これまでも繰り返し書いているように、各回に収められた数本の戯曲は、抜き出した部分の組み合わせの妙を軸に選択したもので、タイトルが掲げるテーマに沿ってのものではない。しかし、改めて読み返してみると、各篇共通するところがあるから面白い。「タニマラ」の残る二本、「金色の魚」と「チュニジアの歌姫」は、ともにP・クレーの作品をモチーフにしたものである。また、「今は昔、~」のふたりの登場人物が、映画監督と助監督を自称していることはすでに書いたが、「チュニジアの~」の主役である映画監督K(カール・ロスマン」も、劇後半でそれが「自称」に過ぎないことが明らかにされる。

クレーの作品に興味を持つようになったのは、いつ頃だったのか。恥ずかしながら、わたしは音楽や美術に関しては無知に等しい。もちろんクレーの名前くらい知ってはいたし、作品にだってチラッとくらいは触れていたはずではあるが …。あれかも? と思い、本棚から吉行淳之介の「夢の車輪」を取り出してみる。この本の頁を繰るのは久しぶりだ。奥付を見てみると、1983年11月30日第一刷とある。てことは、わたしは30台半ば。多分、これがキッカケだ。

「夢の車輪」は、「パウル・クレーと十二の幻想」という副題をもつ、短編よりももっと短い「掌篇小説集」で、各小説ごとにモチーフとなったクレーの絵が添えられている。おそらく、本屋でたまたま見つけて手に取り、それらの絵に心惹かれて買い求め、そこからわたしの<クレー狂い>は始まったのだ。クレーの絵は、まるでエアコンのように、暑い時には涼風を寒い時には熱風を送ってくれる、おそらくそんなところにわたしは惹かれたのだ、自分もこんな作品を作れたら、と。「チュニジアの歌姫」の戯曲の冒頭には、次のようなクレーの言葉が引かれている。(出所失念)

定義するのではなく、喚起すること。規定するのではなく、暗示すること。限定するのではなく、解放すること。 厳密であること。しかし、非合法たることを恐れないこと。

おおそれながら、これらはいまも変わらない、わたしの創作の指針となっている。

「金色の魚」(1996年初演 劇団ACM)は、クレーの絵とその魅惑的なタイトルに刺激されて書かれた、10本の短編からなる短編集「光と、そしていくつかのもの」の中の1本。こう書くと前述した「夢の車輪」をなぞったようだが、直接参考にしたのは、やはりクレーの絵にというよりタイトルに惹かれて書かれたらしい、谷川俊太郎の詩集「クレーの絵本」である。谷川は「魂に住む絵」というタイトルのあとがきで、短い「クレー論」を書いている。以下はその一部。

クレーの絵は抽象ではない。抽象画には精神は住めても魂は住めない。言葉でなぞることは出来ないのに、クレーの絵は私たちから具体的な言葉を引き出す力を持っている。

「クレーの絵本」の表紙にもなっている「金色の魚」の主人公は、アラサーの女性・ヨリ子。劇は、彼女と母親との別れの場面から始まる。母は40も半ばを過ぎて、生まれて初めて燃えるような恋をし、家族を捨てて、相手=金色の魚(!)のもとに行くことを決意したのだ。浜辺まで母を見送りに来たヨリ子は苛立っている。それは、そんな母親の理不尽さにというより、理解できない自分自身に向けられていて、なおかつ、恋に身を焼く母への嫉妬もあれば、別れの哀しさをうまく言葉に出来ない自らの幼さ・未熟さにもまた苛立っているのだ。このとき、ヨリ子はまだ高校生だった。劇はこのときのことが回想として語られた後、「元気でね、電話するから」と言って海に消えた母から、10余年が過ぎたいまになっても、一度も連絡がないことと、時々かかってくる無言電話を、母からのものだと思っていることが語られる。そして最後に、幼い娘に聞かせるように、谷川俊太郎の詩「黄金の魚」を読み上げて …。おしまい。

 

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