竹内銃一郎のキノG語録

「悲劇喜劇」(7月号)掲載原稿 岩松さんの「蒲団と達磨」について2011.06.07

劇(戯曲)、動くもの。 「蒲団と達磨」(作 岩松了)に触れながら

 

本は動かなければいけない。これは池袋の書店の壁に掲げられていた、生物学者の福岡伸一の言葉。ならば、劇=戯曲においてをや? 動いているとは、生きているということ。だから、と続けるといかにも短絡的だが、お題をいただいてわたしが真っ先に考えたのはこのことで。 すでに亡くなっておられる作家、ご存命ではあるけれど、失礼を承知で記せば、実質すでにもう終わってしまっておられる作家、わたしよりずっと若いけれど、変わりばえのしない作品・世界を描き続けて飽きない、動かざることゴルフボールの如き作家の作品は除こう。それに、入手困難な作品を除き、外国の同時代作家のほとんどを知らず、自作を挙げる図々しさを欠いているとなれば、あとはもう岩松了氏の作品しか残らない。 生きているとは、新たに生まれつつあることであり、新たにうまれつつあるとは、刻々と変化・変貌を遂げているということだ。ここにきての氏の作品ごとに示す変化・変貌・変幻ぶりは、「大丈夫?」と声をかけたくなるほどの、無謀というべき激しさである。わたしをして新作を心待ちにさせる作家は、目下のところ氏をおいて他にはいない。 これだけではない。動くこと=運動的なるものは、不安定・不均衡によってもたらされるのだが、たとえば、氏の初期の傑作「蒲団と達磨」は、その運動的=不均衡なるもので満たされている。断るまでもなく、作品自体もきわめて運動的なのだ。冒頭のト書きからすでに氏特有の世界が提示されている。 舞台には、黒い紋付を着た妻と寝間着の夫(不均衡①)。ふたつの蒲団が敷いてあるのでそこはふたりの寝室なのだろうが、なぜかカラオケセットが置かれてあって(②)、「さらに、異様と言うべきか、ふたりの間、部屋の奥の方に、体をエビのようにくの字に曲げ、夫婦に背を向け、横たわっている男がいる」という(③)。夫は新聞を読んでいて、妻は急須にポットのお湯を注いでいる。 かってわたしは、「岩松さんは世界を動詞で描くのだ」と書いたことがある。立つ、座る、歩く、新聞を読む、お湯を注ぐ、等々の動詞によって示される行為の具体の連なりと、人物たちの登場・退場による、その場の空気の濃淡の変化が醸し出す滑稽と哀切が、氏の劇のすべてなのだ。 「静けさは、時の深さを告げるよで……」。夜も更けているらしい。ふたりの沈黙がもたらすそれなりの緊張感。その中で、ふっと洩らされるため息のような次なる言葉が(④)、この劇の最初の台詞だ。 夫 これは、夕刊じゃないな…… 以降、まるで石ころだらけのグランドでなされる野球のように、イレギュラーバウンドめいた、ズレと間違いと勘違いな台詞のやりとりが続き(不均衡の連続!)、夫の招きでやって来た妻の前夫の次の台詞で、この過激な劇の幕はおろされる。 小松 ……アチャー…… いい天気になりそうだな…… わたしたちは、語るべきこと、語りたいことの多くを語ることが出来ない。言葉は常に思いとすれ違うのだ。とはいえ、なんという無意味! こんなにゆるい、舐めたような台詞で始まり終わる劇の書き手が、他にいるだろうか。 舐めている? なにを? それはおそらく、多くの作り手や観客たちが疑う余地のないものとしている、「劇的なるもの」のすべてをだ。 笑いがなければいまどきの芝居じゃないよね、とか。いやいや、演劇にはやっぱり高邁な思想や社会(批判)的なメッセージがなければ、とか。演劇・戯曲の生命線は台詞だから、言葉遊びって劇の本流だよね、とか。劇って非日常的な世界を描くんでしょ、お客様は神様です、誰が見ても分かって楽しめるものじゃないとね、テンション、テンション! 「演劇の底力!」、等々。 動くということは、信じない、ということなのだ。 氏の数多ある作品の中から「蒲団と達磨」を選んだのは、たまたま最近、勤務する大学の授業で取り上げたからで、他に理由はない。なんでもよかったのだ。というより、ひとさまに薦めるかどうかはともかく、わたしがもっとも読みたいと思う戯曲は、氏の次回作である。出来映えなど問題ではない。谷川雁(違うかも?)の言葉を借りれば、「完成がなんだ!」なのである。 (「悲劇喜劇」2011年7月号)

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