竹内銃一郎のキノG語録

動詞で描く。  「ムーンライズ・キングダム」ノート①2015.04.01

(言語学者服部四郎さんが日本語は)行動者を「表象」することなく、行動、動きだけを「表象」するといえるのではないかといっている。(中略)名詞は物が対象になるから、時代と共にどんどん変わっていくけれども、動詞は変わりにくい。聞いたり、見たり、さわったりということばは、もともと古い古いことばです。(中略)人間の「動き」を眼目につかまえる。名詞とか代名詞は後からのつけたりみたいなもので、大して考えなくていいというのが、服部説にひっかけたぼくの日本語、日本文学の感覚です。それで『大菩薩峠』を読むと、全体がいわば主語のない文章で、どこかへ移動していくとか、そちらへ動いていくとか、動きに一番魅力がある。(多田道太郎『変身 放火論』より)

「グランド・ブダペスト・ホテル」について、さほどの間をおかずに5回書いたら、すっかり疲れはててしまって、なにかしようという気が失せてしまった。いくらパンチを繰り出しても、すべてかわされブロックされて、といった感じか。それで、二日酔いには迎え酒でというわけで、ウェスの「ムーンライズ・キングダム」を見たのだが、これがまた隙のない傑作ときている。

ストーリーの詳細はネット等で確認していただくとして。要するに、12歳の少年と少女の駆け落ちと、それがもたらす周囲のてんやわんやをコメディタッチで描いた甘酸っぱいお話だ。むろん、こんな話はこれまでも掃いて捨てるほどあったろう。しかし、それらと(多分)大きく違うのは、多田が『大菩薩峠』に感じたものと同様の魅力に溢れているというところだ。即ち、ふたりの少年少女がなぜ駆け落ちするに至ったのか、その理由・事情・揺れ動く心理にではなく、ふたりがどのようにして出会い、どのように接近し、どのようにして駆け落ちを敢行したのかを、「動き」と「移動」にピントを合わせて描いていて、そこがこの映画の一番の魅力になっているのだ。

「グランド~」同様、素晴らしいスピード感に酔わされる。ふたりは会ったその瞬間に互いを好きになってしまう。好きになるのになんの理由がいるのかと言わんばかりに。しかし、こんな乱暴な振る舞いをする一方で、後に、男の子は孤児であり、女の子も問題児であり、ともに深い孤独を抱えている(らしい)ことが語られて、ふたりの結びつきはいわば必然であったと、フツーの観客を納得させる手堅さ(?)もあって、そこがこの監督の実に憎いところだ。

ふたりが初めて出会う件も憎い。教会で、子供たちがお芝居を上演している。それを見ていた少年は、退屈を覚えたのだろう、客席を抜け出し、舞台裏をうろうろしたその挙句、女の子たちの楽屋を覗いて、そこでふたりは出会うのだが、そのストーリー的にはどうでもいいはずの「うろうろ」の描写が素晴らしい。

いかん。簡単に感想を記すにとどめるつもりで書き始めたが、また長くなりそうだ。

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