竹内銃一郎のキノG語録

ぎりぎり=ポエジーが湧き出る場所  「ムーンライズ・キングダム」ノート③2015.04.03

前々回で触れた多田道太郎の「変身 放火論」は、タイトル通り、「変身」と「放火」を論の核にして、日本の小説・戯曲5本について書かれたものだ。随所に散りばめられた薀蓄・知見もさることながら、なによりそれらを述べる語り口がまるで落語を聴いてるようで楽しい。そしてさらに、あたかも「ムーンライズ~」の手引書、攻略本にもなっている(?)ところが、目下のわたしにはありがたい。以下は三島の「金閣寺」について書かれたところ。

物語の美学というのはエロ・グロ・ナンセンスぎりぎりのところだという臨床学者の説があります。戦前は「エロ・グロ・ナンセンス」と言った。戦後、三島以後は「エロ・グロ・ヴァイオレンス」に転変したのではないか。(中略)ぎりぎり、というのは作者の臆病とか節度のことではありません。限界とか、あわいとか、境界とか、そこに深いポエジーが湧き出る場所のことです。

前回書いたように、「ムーンライズ~」の94分という上演時間は古の映画への深い敬意のあらわれで、撮りたいものを好きなように編集してたまたまそうなったものではなく、90~100分に収めるべく、まさにぎりぎりの選択をした、強い意志の結果なのだ。

昔のほとんどの映画の上映時間が90~100分だったのは、芸術的必然からではなく、明らかに興行者からの要請によるものだ。短ければ短いほど上映回数は増えるし、その分客=儲けが増えるからだが、しかしそれは、作れば売れた昔の話で、そんな夢のような前提がなくなってしまった今、90~100分に縛られる必然などどこにもない。にもかかわらず、ウェスがそれを自らに課しているかに見えるのは、繰り返しになるが古の映画に対する敬意があるからであり、「グランド~」のコンシェルジュ・グスタブ同様、すでに幻となっている映画をなんとか維持したいと思っているからだ。そしてさらには。

前述の「変身~」の中で、多田は坂口安吾の「抑圧こそが文化・芸術を生み出す力」という意味のことばを引いているのだが、ウェスにとって、90~100分に収めるという抑圧(=自らに課した縛り)が、ぎりぎり=ポエジーが湧き出る場所につながっている。

「ぎりぎり=ポエジー」を実感させる箇所は数多あるが、その一例を挙げると。ふたりは初めて会ったその一年後に駆け落ちを敢行することになるのだが、この間、おそらく一度も会ってはおらず、その代わり、おびただしい数の手紙を送り送られる。スージーの家出が発覚した後、彼女の両親がその手紙を発見し、それが(われわれ観客に)紹介される件である。

双方の手紙の断片が書き手の声で次々と(10通くらい?)読まれ、それに沿って、書いている彼・彼女の現場=風景が映し出されるのだが、その切り替え=転換=移動が、まるで0.01秒を競うスプリンターのような速度・感覚のもとになされる。もちろん、ただ速いだけではない。手紙の内容とバックの風景によって彼等の苦境が語られ、なおかつ、過剰とも思える速度はふたりの恋の高まりに同期しているのだ。

ふたりの二度目の出会いのシーンも素晴らしい。場所は、スージーの家から365米のところにある(らしい)草原。超ロングに引かれたカメラに納められたふたりは、画面の両端にいて、その距離30~50米くらいか。そしてもちろんふたりはその長すぎる距離を縮めるべく接近するのだが、これがまた! 双方の歩みをひとりづつ、カットを切り換えて見せるのだ。まるで手紙のシーンを反復するように、しかし、切り換えの速度をぐっと落として。このおずおず加減が可愛くてたまらない。フツーの会話が出来る距離まで接近したふたりは、照れくさそうに言葉を交わしあい、そして、何度も繰り返されるテーマ音楽とともに超ロングにひかれたカメラが、草原の向こう(=向こうの世界)を目指して走り出すふたりをとらえる。泣いちゃいます。(続く)

 

 

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