本当の錯覚が欲しい。水たまりと海とをまちがえてるぐらいの。2015.06.23
先週の検査の結果が明日分かる。自分的には申し訳ないほど元気で、尿の方はもう、見た目には、飲んでもOKと思うほどの、岩清水を思わせる清らかさ(?)なのだが …
なんとなく気持ちが落ちつかないので、昨日は、あじさい寺として有名な三室戸寺に出かけた。花や動物にはいささかの興味もないのだが。やはり気持ちが弱っているのか。先週だったか、TVの旅番組で見た、生まれて間もない羊の子どものメーメーと鳴くさまがあまりに可愛くて、泣きそうになってしまったのだった。しかし。三室戸寺のあじさいには少々がっかり。もっといっぱい咲き誇っているのかと思ったら、そうでもなく。帰り際に受付で、盛りは過ぎたのかと聞いたら、そうですね、というご返事を頂いた。
そして今日。野間俊一の「身体の哲学」も読み終わり、さて、次はなにを読もうかと本棚を眺めていたら、わたしが書いた文章が掲載されている雑誌が並んだ棚に、3冊同じものがあることを発見。それは「現代詩手帖」の1988年2月号。わたしはこの雑誌に一年間、演劇のコラムを連載していて、多分、この号から始めたはず。取り出してパラパラと読む。目次には、鮎川信夫の未発表講話「詩の言葉と広告の言葉」が大きな文字で目立つように置かれている。戦後詩に大きな足跡を残した鮎川は、前年末に亡くなったようだ。
以前にも同じことを書いた気もするが。詩に限らず、美術も文学も演劇も、「現代」という言葉が付されたものは、すっかり淘汰されてしまった。多分、現代=新しい=冒険的という等式が成り立たなくなったからだろう。もう少しぶっちゃけて言えば、もう「現代」は商売にならないし、そもそも、「現代」ってものの様相がよく分からなくなってしまった。それにともなって、雑誌文化もいまや風前の灯だ。でも。この20年近く前の雑誌、目次には面白そうなタイトルが並んでいる。芹沢俊介『「ゴクミ」たち』、稲川方人「臨界的行為の場を求めて」、荒川洋治「いまどきの大岡さん」、等々。稲川氏の文章は活字がギシギシに詰まっていて、ほとんど改行がなく、いまの若い子の大半は、読む前に、頁を開いた途端に吐き気をもよおすかもしれない。時代だなあ。わたしはなにを書いているかというと、「他者へと語りかける勇気を」というタイトルで、「青い鳥」の公演を取り上げている。内容はと言えば、このブログに書いていることとほとんど変わらない。わたしのこの20年はなんだったのか。実に情けない。因みに、今回のタイトルは、雑誌に応募されてきた「新人作品」の選者である鈴木志郎康氏の選評の中で見つけた言葉。
そんなこんなしていた午前中、木場さんから電話が。ブログを読んで、「からだはどうなの?」と。久しぶりでもあり、あれこれバカ話をしたのだったが、ひとつだけ笑えない話もあって。斜光社で演出をやっていた和田が、癌で来月アタマに手術の予定だと言う。うーん。三室戸寺では文字通りの困った時のナントカで、いじましいと思いつつ、100円出して、「健康祈願」と書かれた線香を上げてきた。出来ることなら、和田の後を追いたくないのだが …。