続・椅子はただ座るためにあるのではなく 演出ノート②2015.12.24
障子は立ててあり、畳は敷いてあるうちは、障子でも畳でもない。障子を宙に吊り、畳を裏返して立てかけてみると、はじめて障子が障子であり、畳が畳であることがわかる。(「劇的なるものをめぐって 鈴木忠志とその世界」早稲田小劇場+工作社編 より)
前回に続いて「かもめ」四幕の、椅子とドアのこと。
とりあえずふたりきりになったニーナとトレープレフは、会わなかった二年の間になにがあり、そして、いまはどうなのかを互いに語るのだが、言葉が噛み合わず会話が成立しない。なぜなら、前回にも書いたように、ニーナは眼前にいるトレープレフにではなく、ドアの向こうにいて、時々笑い声さえ聞こえる元愛人のトリゴーリンと、そして彼の愛人であり、トレープレフの母であるアルカージナの方に意識がいってしまっていて、トレープレフもそれが分かっているからだ。これまで見たこの芝居のこの場面がおしなべて上手くいっていないのは、おそらく、演出家がこの噛み合わないやりとりをなんとか噛み合わせようとするからだ。チェーホフ劇の面白さは、これまでも何度か折に触れ書いてきたことだが、そこでなにが語られているのかではなく、ひとが言葉と格闘しているその状態、即ち、ひとはいかに語りえないかというところにあるのだ。このもどかしいという他ない時間をサスペンスフルにするのは、これまた前回も書いたように、ドアはいつ開けられるのか、開いたらどうなるかという興味以外にない。
冒頭に置いた言葉に続いて、同書には、鈴木氏のこんな言葉が引用されている。「俳優が使う小道具や、かたわらに置かれているものが突然生命をふきこまれたように、その存在を主張しだすときがある。そういうときは、俳優の方がものに使われているようにみえる」
ドアとそしてその前に置かれた椅子がことさらに主張し、そしてそれらに若いふたりが翻弄されているように見えないかぎり、ふたりの俳優がどれほど熱演しようと、陳腐で退屈なメロドラマから抜け出すことは出来ないはずだ。
ところで、<もの>について、坂部恵は次のように書いている。「ものということばの原義が、もののけ、その他のことばにおいてあきらかなように、折口信夫のいうところによれば『外から禍を与える霊魂としての鬼とか幽霊』、あるいは、『神に似て、階級低い魔物の生霊』といったものをあらわすことはよく知られている」(『「ふれる」ことの哲学』より)