竹内銃一郎のキノG語録

役立たず! 小津・田村信・チェーホフを結ぶもの2016.05.04

どうも風邪をひいてしまったようだ。昨日の夜から鼻水が止まらない。朝起きたら頭も重い。先月の29日、「~魂~」の顔合わせのために家を出ると、風がひどく冷たく、慌てて上着をとりに家に帰ったのだが。多分、あの冷たい風のひと吹きにやられたのだ。翌日翌々日と競馬があったのだが、いつものように燃えず。あんまり当たらないから、さすがのわたしも闘志が萎えたのかと思っていたのだが。体調不良だったのだと今日になって気づく。なぜ今まで気づかなかったのか。30日からほぼ毎日、誰かと会う約束があって、気が張っていたからだろう。

30日には、卒業生のしめだ・三浦両嬢が我が家に来訪。2日は、以前に何度かわたしの芝居に出演してもらった志甫(旧姓)さんが京都に来ているというので、2歳半になるらしい彼女の息子の曜くんともども、ランチを食べ、そのあと、鴨川べりをお散歩。ここで事件が起きた。おそらく、そこかしこから聴こえてきていた路上ライブの音楽に刺激されたのだろう、曜くん、突如パンツからなにからすべてを脱ぎ捨て、素っ裸になってノリノリで、文字通りの狂喜乱舞! 狂ったように踊り出したのだ。まるであの<できんぼ>みたいに。笑ったあ。昨日は、7月の公演の衣裳を担当してもらう上島さんと久しぶりに会い、台本と稽古日程を渡すのが目的だったが、なんだかんだと3時間ほど雑談。いずれも若い婦女子。こんなくそ爺の相手をしていただいて、皆さん、ありがとう。

amazonから、『できんボーイ』に続いて、同じく田村信の『かすちけけ』が届く。いままで単行本に収められたことのない作品を一冊にまとめたものらしいが、タイトルの意味が分からない。本のどこにもその説明はなく。内容から察するに、漢字で書くと、「滓恥毛々」になるのか …?

京都市役所前の地下街にあるふたば書店で買った、前田英樹の『小津安二郎の喜び』をざざっと流し読みする。4部からなっていて、第Ⅰ部のタイトルは「喜劇の静けさ」で、その第1章のタイトルは「映画が滑稽であること」で、その1のタイトルが「笑いの幸福」である。前田氏の著書は10冊ほど持っているが、いずれも、対象への執拗な探求がそっけない文体で書かれており、決して分かりやすいものではないのだが、その相反する特性(?)が絡み合っているところが面白い。

このところのブログに書いている、小津と田村信、そして少し前のチェーホフ。なんて脈絡のない軌道を描いているのかと、思われる方もおられるかも知れないが、さにあらず。小津もチェーホフも、とりわけ初期作品は、田村信のマンガといささかも変わるところのない、ただただ無意味な喜劇を作っていたのだ。そして両者ともに、晩年に至るまでその馬鹿馬鹿しさを手放すことはなかった。だからこそ、おそらく御年60を超えたはずの田村信の新作を読みたいのだが …

先の書の第1章の終わりで、前田英樹は次のように書いている。

芸術にもならず、科学にも寄与しない映画という滑稽な視覚機械は、馬鹿な娯楽に供せられるしかない。映画の正体を、包み隠すことなく顕わせば、それは埒もないドタバタ喜劇にぴったりな、役立たずの機械装置である。(段落)小津の初期サイレント映画は、まさにその役立たずの視覚性を、包み隠すことなく溢れさせている。視て、ただもう、どこまでも笑う。笑い以外の何ものもない視覚の連続、『淑女と髯』や『突貫小僧』は、まずそういうものだと言っていいだろう。

田村信のマンガもまさにそういうものだ。おそらく、マンガは素朴な手作りの、役立たずという意味では映画以上の視覚装置で、田村信はそんなマンガの特性をもっともよく分かっている、最上級の使い手なのだ。

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