竹内銃一郎のキノG語録

シンプル=技巧を超えるもの。  「~魂~」稽古ノート②2016.05.22

JIS企画を始めた頃からだろうか。バカのひとつ覚えのように、稽古場でいつも必ず言う言葉がある。それは、「応答は、出来うる限りシンプルに」というものだ。今回話したのは、次の場面の稽古をしている時だった。

ふたりの女性の短いやりとりである。この劇の語り手でもある倉田家の妹(佳織)と、彼女の亡くなった長兄の元恋人(麻紀)。ふたりの間には一見したところなんの利害もない。長兄(=見えない第三者)を挟んで、ふたりが三角関係にあることは明らかだが、会話はあくまで和やかにつつがなく進行する。少なくとも戯曲はそのように書かれており、わたしも最初は、ふたりは久しぶりに会うのだから、あまり話の内容にとらわれず、言葉を交わしあう喜びを横溢させてほしいと、演じるふたりに注文していた。しかし、何度か繰り返すうちに、ふたつの台詞がひっかかり、どうもそれではきれいごとに過ぎるのではないかと思うようになった。佳織の母が結婚してハワイに移住することが決まり、それを受けて洩らす麻紀の「寂しくなるなあ」「私、美紀恵さん(佳織の母)がおらんくなったら友達おらんもん」という台詞。彼女の背景については書かずにおくが、いずれにせよ、これは思わず洩れてしまった、前後のやりとりを異化する、麻紀の心の内なる言葉である。

思わず洩らす本音はどのように語れば成立するのか。ぽつりと言う? それが本音であることを悟られないように、遠まわしにその真実を語る? そうではなくて。前回書いたように、ポロリと言うのだ。出すつもりも見せるつもりもなかったのに、オッパイが出てしまった時のように。(下劣な例えでシミマセン)

このポロリを可能にするのが、「シンプルな応答」だ。先に、「言葉を交わしあう喜びを」と書いたが、その「喜び」は何によってもたらされるのかと言えば、それは「笑顔の交換」などではなく、自らが投げかけた言葉を相手がどう受け止め、どのように答えるかという「交換のスリル」だ。具体的に言えば。麻紀の「寂しくなるなあ」という言葉を受けて、佳織は「なりますねえ」と答えるのだが、麻紀は、そんな安易な(?)同意を許さないような言葉を佳織につきつけ、佳織はその言葉に一瞬たじろぐが、すぐに態勢を立て直し、何事もなかったように言葉を返す。ともに、婉曲な物言いにせず、シンプルに、対象に向けてまっすぐ言葉を投げかければなければいけない。

わたしが考える演技の基本とは、「子どもが、生まれて初めて発語するように語り、初めて歩くように動くこと」というものだ。劇・演技に限らず、表現に触れる喜びは、世界の始原に触れる喜びであるはずだ。このことを改めて確認させてくれたのが、前回触れた、石峰寺の五百羅漢だった。

一般に、創作・表現は、作家個人の思い・考えの表明であると思われている。しかし。若冲の絵は驚嘆すべき超絶技巧で知られているが、石峰寺の裏山に置かれ、種々の木々や花々とともにある数多の羅漢さんは、作者若冲という個人の思惑を超えて、まるで二百余年という歳月の創作物のようだ。おお、超絶技巧を超えるシンプルさ! それはおそらく、若冲の理想であり、願いでもあったはずだ。

 

 

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