竹内銃一郎のキノG語録

痛いところを突いてやるのが親切というものでしょ。 「~魂~」稽古ノート③2016.06.01

稽古開始から3週間が過ぎた。5月中にエンドマークまでと思っていたが、最後のエピローグがまだほとんど手つかず。でも、当初の予定をはるかに上回るハイペースで順調至極だ。手こずらせる俳優がいない。それが順調な進行の最大の理由である。しかし。

昔、吉田日出子さんからこんな話をお聞きしたことがある。彼女が映画で田中絹代と共演した時のこと。田中絹代が刃物で男を刺す場面で。相手に近づいて刺す。ただそれだけのことが田中は出来ず、というか、何度も何度もNGを出す。田中絹代といえば、戦前から数十年間にわたりずっと第一線で活躍、溝口健二や小津安二郎等々の映画に出演して数多の賞を受賞した、誰もが知る名優である。それが素人でも出来そうな芝居が出来ない。自分の出番がなかなか回ってこない吉田さんは、ボケているのかとあきれ、その時は、田中絹代への尊敬の念もすっかり薄れてしまったらしいのだが、それが! 映画を見たらその場面がなんとも言えず素晴らしく! そこで吉田さん、俳優はNG(試行錯誤)を恐れてはダメだと学び、と同時に、不器用の凄みを思い知らされたのだ、と。現在この国にはびこっている多くの芝居(映像も含む)は、素人でも小器用であれば簡単に出来そうな演技だけで成り立っているのだが、田中絹代は、そんな安易な選択をしなかった、という …。

一見スムーズに運んでいるかに見える芝居が危ない。昨日も稽古場で、そんな話をした。俳優の多くは、台詞の言い回しに気を使う。演出家もそれを促しているのだろう。その結果として、多くの芝居はリーディングと実質変わるところがない。いや、わざわざ劇場まで足を運ばずとも、家で自分で戯曲を読んでいた方がずっと面白い。俳優の身体(性)の欠如。一言で言えばそうなるが、そんなに難しい話をしているわけではない。以下は、昨日実際に話したその一例。

倉田家の母親に一本の電話がかかってくる。それは、十数年前に蒸発した彼女の夫について、直接会って話をしたいが、という内容。これを、相手の台詞をカットし、母親がひとりで受け答えする。現れとしては、ひとり芝居だ。演じる俳優には先に、相手の台詞の時間を考慮しないで、どんどん話すよう指示をしていた。それもあったのだろう、自らの物言いで、相手の話から受けた動揺をなんとか説明しようとする。それは違うよ、とわたし。肝心なのは、物言いではなくその時々のからだの状態でしょ。やりとりの内容を三つに分けると、知らない相手からの電話だから、応答の始まりは「不可解」で、夫の所在を知っていると聞いたらそれは「驚きと動揺」に変わり、次には会う「決断」に変わる、と。それを観客に分かるようにではなく、だって聞こえもしない相手の話の内容を伝えようなんてどんな名優でも無理だから、自分自身がその変化をハッキリ確認できるようにする、具体的には、その都度、手の位置が変わるとか。からだの微妙な変化に物言いがついてくるはずだから。何度も言ってるでしょ、からだが先で言葉はあとだって。

演出家は、思ったことをそのまま俳優やスタッフに言えばいいわけではない。時には我慢も必要で、さほどのものではないと思っても、悪くないよと言葉をかけるのも必要だ。しかし。ひとにとって、課題をクリアすることは喜びであり、その課題・目標が高く遠いものであればあるほど、クリアしたことによって得られる喜びは大きいはずだ。だから、時にはキツイことを言うのも演出家の辛い(?)務めなのだ。因みに、今回のタイトルは、今朝たまたま見たTVで、高名な染色家が語っておられた、ありがた~いお言葉。

 

 

 

 

 

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