わたしは茄子も嫌いです。2014.07.04
このブログの原稿、アップする前に誤字脱字がないか一応の確認をするのだが、それでも誤字脱字は必ずといっていいほどあるので、情けなくなってしまう。漢字変換の間違いもあるが、多いのは助詞の間違い。一度書いた文章を修正したとき、一部消し忘れをしてしまっているようだ。
いま書き進めている戯曲に、中国人(日本人とのハーフ)の女性が登場する。最初は日本語堪能として、フツーの日本語を喋らせていたのだが、先に書いたような助詞の間違いに気づいて、その台詞を書き直そうとしたが、待てよ、これはこのままでいいのではないかと思い、間違った(?)日本語をさらに強化することにした。
一週間ほど前だったか、池袋で脱法ハーブを使用した男が車で歩道に突っ込み何人かの死傷者を出した、という事件があったが、そのときに亡くなった中国人女性の友達が、TVュースの取材に答えていたときの「変な日本語」も耳に残っていた。
「彼女とてもいいひと。なぜ殺す? わたし許せないよ」
実際にこんなことを言っていたわけではないが、大体こんな感じだ。イントネーションも独特の癖があるが、やっぱり日本語の助詞の使い方は難しいのだろう。
耳に残るのは、もちろん「変わっている」、違和感があるからで、その違和感がインパクトを与える。
そんなインパクトある台詞は書いていても楽しいので、こっちもすっかり癖になってしまたのことよ。
今回の戯曲は、ヴェンダースの「アメリカの友人」をもとにしているのだが、改めて映画と舞台の違いを考えている。
「アメリカの友人」は100分くらいの作品だが、その100分のうち、登場人物たちが喋っている時間は、多分半分の50分に満たないのではないか。半分以上は、台詞がないのだ。
しかし、芝居ではそうはいかない。
以前にも紹介したが、亡くなられた太田省吾氏は、「演劇は<なす>ではなく<ある>を得意とする表現だ」と説いた。
世の多くのひとは、演劇とは<なす>ものだと思っている。そして、ただ<なす>のではなく、<なす>を過剰に拡大して見せるものだと思ってる。だから、「芝居みたいな真似をするな」とは、大袈裟な真似をするなという意味であり、「芝居っぽい」とはうそ臭いという意味なのだ。
絵画のようだ、音楽みたいだという形容が褒め言葉になることとこれはまさに真逆である。
前回で触れた三谷版「桜の園」はまさにそんな<芝居=大袈裟・嘘>の典型で、俳優達がいたづらに舞台で右往左往していたのも、ナニカナサネバという強迫観念にかられたためであったように思う。
太田氏は、舞台上にひとが<ある>ことを劇の本分と考え、そんな「大袈裟なうそ臭いもの」の対極に演劇を置いたのだ。
太田氏は、<ある>を沈黙に重ねて何本かの作品を作ったが、当然のことながら、俳優達はただ黙って舞台上にいたわけではなく、なにごとかを<なして>いた。「水の駅」という作品では、舞台にいくつかの水飲み場があって、行き交うひとが、そこでなにごとかを<なして>いた。わたしは正直、その沈黙がいささか過剰なもののように思われた。結局、これも結果として、<ある>よりも<なす>の方が優位に立ってる芝居なのではないかとも思った。
舞台上で俳優が<なすべき>唯一のこと、それは話し、喋り、語ることであるように思われる。そして、それら発語行為は沈黙と対になっている、と考えなければならない。
人間はそこにそうあることがすでにどこか滑稽だが、とりわけ発語しているとき、言葉と格闘をしている状態の滑稽には哀しみをさえ覚える。これがチェーホフが自らの作品の多くを「喜劇」と規定した理由・根拠なのではないか、とわたしは考える。
映画「アメリカの友人」が言葉を発せず映像のみで語った50分以上を、なんとか言葉で埋めたい。荒唐無稽とも思われかねないストーリーとともに。
言うは易し、行うは難し ……
それにしても。先に書いた脱法ハーブ野郎の起こした事故現場は、池袋の三菱東京UFJ銀行前で、ここら辺は三日に一度くらいは通っていた。もしかしたら自分も事故に巻き込まれていたのかもしれないのだ。
改めて実感した。生死の境目は紙一重なのだと。