竹内銃一郎のキノG語録

無意味と計算  「かごの鳥」を書きながら③2016.12.02

「かごの鳥」、なかなか終わらない。4日前に最後まで書いたのだが、中頃のひとつの台詞に納得がいかず、そのたったひとつの台詞のために作業の幕をおろせないのだ。完成稿(台詞がひとつ抜けている)は現在のわたしの書式で34枚。上演時間に換算すると70~80分くらいのものだろうか。30年前に上演したものはもう少し長かったはずだが、記憶違いなのかもしれない。

前回、戯曲の一部をチラリとお見せしたが、全体の70%くらいはあんな調子で、漫才・コント風の短い台詞の応酬になっている。「大鴉」も、長めのコントをというつもりで書いたものだが、かといって、「大鴉」や「かごの鳥」(の一部)を漫才・コントの台本として使って、十分な笑いをとれるかというと、そうはいかない。ナイツやサンドウィッチマン等のよく出来たネタ相手では、まったく勝負にならないだろう。内容がどうこう以前に、それらは、少なく見積もっても何百回と演じられているはずで、当然その度に書き換え・言い換えがなされ、つまり、ネタの熟成度が全然違うのだ。何回か前に、岡田利規が現代口語(風)に書き換えた狂言の台本は詰まらないと書いた。わたしにも以前に、新作狂言の台本を書いてはどうかという話があり、それを断ったのは上記の理由からで、何百年という長い年月をかけて練りに練られていまある狂言(の台本)に拮抗しうるものなど、いまの作家の誰が書けよう。

「かごの鳥」が、戯曲(劇の台本)なのに漫才・コント調になっているのは、わたしの性癖(?)のなせる業とも言えようが、やっぱり若さゆえの産物だろう。書き直すことでその<若さ>を失いたくない。この作品において、それは重要な生命線だと思うからだ。原本よりも更に無意味の過剰を目指すこと。前回の引用部分はそれに沿ったものだが、次なる箇所もその例のひとつ。

Pe さっきから言ってるでしょ、わたしは泳げないんだって。Ha 為せば成る。こんな小さなメダカだってスイスイ泳ぐのよ。Pe 魚じゃないの、わたしは。Ha 理屈で世の中渡れるかッ。Pe よして、そんなおじさんみたいな言い方。Ha そう。問題はそのおじさん。これがはっきりするまではわたし、死んでも死にきれない。Pe やっぱり死んじゃうの? わたし達も。*Ha 言葉の綾でしょ。おあやや母親にお謝り。おあやや    Pe お母さまも叔母さまも、それにはっぱのおばあちゃんもみんな亡くなってしまった。Ha わたしがいるゾ、ミス・ワイズミュラーが。

*印がついている台詞が書き換え部分で、原本では「ことばの綾よ」と、それだけになっている。駄洒落カイ! と言う勿れ。ワタクシ的には、付け足した台詞がナンセンスの質を上げてると思うのですが、ドンナモンデショ? この引用部は、他にも台詞の倒置、句読点のうち変え、最後の台詞も原本では「わたしがいるでしょ、ミス・ワイズミュラーが」となっているとか、書き換えが多々ある。

タイトルになっている「計算」も、今回の書き直しのテーマのひとつ。そのいい具体例がある。この劇の言うなれば山場になるのだが。監禁されたはっぱとペンには、大きな危機が迫っている。川べりにあるらしいその場所に、豪雨がもたらした洪水が押し寄せているのだ。そこへ、懐かしいハモニカの音が。それは彼女たちが待ち望んでいた者が奏でるメロディだ。彼女たちは必死に、わたし達はここにいると叫ぶ。ハモニカはどんどん近づいてくる。しかし、扉のすぐ前に来たかと思う間もなく、ハモニカは次第に …というシーン。もちろん、ハモニカの主は姿を見せず、彼(?)の<近づく・遠ざかる>、つまり彼らの距離間は、ハモニカと、彼女たちのそれへの反応(の言葉と身振り)で示さなければならない。原本ではその<計算>が十分になされていないのだ。というか、思いばかりが先走って、明らかに<計算>に必要な冷静さを欠いている。おそらく、早く書き上げたいという焦りもあったのだろう。今回は、20米、10米、0、-20、-10と彼らの間に横たわる距離の変化を設定して、ふたりの台詞を書き換えた。

原本の、洪水が押し寄せている箇所の台詞に「なんてリアルな!」と我ながら驚く。暴れまわる水の恐ろしさは、このところ、TV映像で繰り返し目の当たりにしているのだが、二つ三つの短い台詞でその様が的確に示されていて、ホーと思う。また、思いもよらぬタイミングで男が登場する(姿は見せないのだが)シーンを読んでいて、映画「狩人の夜」(監督チャールズ・ロートン)を思い出す。ふたりの子どもが舟で川を下っている。彼らは恐ろしいおじさんに追われているのだ。何日か経って、もうおじさんは追ってこないだろうと判断し、舟を川岸に停め、近所の農家の納屋に潜り込む。これで久しぶりに安眠できると思いきや、ふと窓の外を見ると対岸に、馬に乗ったあのおそろしいおじさんがいるのだ。もちろん、執筆当時は、この映画を見てないどころか、その存在さえ知らなかった。「かごの鳥」は待ち望む者の到来で、「狩人の夜」は対面を避けたい者の到来だが、なにか似ているのである。

早起きは三文の得というが、長生きは十文くらいの得があるのではないか。

 

 

 

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