竹内銃一郎のキノG語録

言葉にはリズムと響きがある2014.07.18

あれはアクセス件数というのか。このブログのそれをいま確認したら、033230になっていた。
あともう少しで「3並び」になる。パチンコならば、大当たりだ、多分。パチンコはもう30年以上もやってないから、いまはどうなってるのか知らないが。
一日に1万10万のアクセスがあるブログもあるらしいから、それらに比べたらまことにささやかな数字だが、そういう人気ブログの多くは、多分、食い物や犬猫の可愛い写真入りだろう。ご承知のように、わたしのブログときたら、グダグダと文字だけが並んだ愛想もクソもないものだから、いつもお付き合いを頂いている皆様方には、感謝にたえない。
そういうわけで。「3並び」記念に、日頃ご愛読いただいている方々に、わたしの戯曲集のプレゼントはどうかと考えたのだが、その途端に、嫌な記憶が甦る。
もう何十年も前の話だが。あれはなにがあってそうなったのか、まったく記憶にないのだがとにかく、わたしの「竹内銃一郎戯曲集①~④」全巻を差し上げます、希望される方は応募して下さい。と、公に示し、それに、「但し、1名様に限らせていただくので、応募者多数の場合は抽選に致します」、と付け加えた。
だけんどもしかし。二桁くらいはあるだろうと思っていた応募が、な、なんと、ひとり! なにが抽選じゃいッ! とわたしはそのとき、ひどく傷ついたのだ。
なので。広く希望者を募りませんが、「竹内、読みた~い」という方は、その旨そっと、コメントかなにかでお知らせ下さい。
「moon guitar」も、あと残り少しのところまで来ている。いま現在45枚。50枚前後で終わらせたいと思って書いてきたので、あと5枚+α。野球でいえば、最終回のマウンドに押さえ投手がいよいよ登場、といったところ。サッカーに例えれば、幾本かのパスをつなぎ、時にはドリブルも織り交ぜながらゴールエリアまで詰めてきて、あとはシュートを叩き込むのみ、である。
岩松(了)さんは、書いてるときは読み返さない、修正もしないと公言されているが、わたしは繰り返し読み直し、修正も繰り返す。その修正の大半は、語尾だとか、「沢山」を「いっぱい」にとか、言葉の位置を変えるとか、実にみみっちい、多くのひとは、その修正に気づかないような種類のものだ。
改めて言うまでもないことだが、台詞=言葉には、意味だけでなく、音やリズムも含んでいる。台詞は俳優がそれを発語することで観客に伝えられる。多分、多くのひとは、台詞に同意したり疑念を抱いたり、あるいは、感動したり泣いたり笑ったりするのは、言葉の意味への反応だと思っているのではないか。しかし本当は(?)、まず台詞の音の響きやリズムからなにかを感じ取り、意味はそれに遅れてやって来ているはずなのだ。
わたしの修正のほとんどは、台詞のリズムの調整に絞られている。
どういうリズムを良しとするかは、体調に左右されているようで、もちろん、体調は日によって違うから、昨日はOKとした台詞が、今日はNGということもよくある。昨日と今日、どっちを採るか、判断に迷うこともしばしばだ。
C・イーストウッドは、基本的にワン・テイクしか撮らないらしい。多分、彼の俳優としての経験がそういう方式を選ばせたのだろう。テストを繰り返すたびに俳優(の演技)は出がらしになっていく、そう思っているのだ。
一方、小津安二郎は、10回20回とテストを繰り返したことで知られている。多分、小津は、出がらし状態の向こうに、俳優個人の真実、あるいは、それさえも超えた人間=世界の真実が見えるはずだ、と思っていたのだ。
最近、「自分らしさ」とか「ありのままで」などという言葉が批判の的になっているようだ。Wカップに出場した日本チーム(の選手達)が、「自分たちのサッカーが出来れば」と繰り返した挙句に惨敗してしまったことがキッカケだ。
小津が執拗にテストを繰り返したのは、わたしが前述したような「(映画の)心地よいリズムの探求」のためであったと思われるが、もうひとつ、「自分らしさ」などという迷妄から、俳優を解放するためでもあったのではないか。
C・イーストウッドも方法は違うが、求めているのは同じことである。本番一発で決めるということは、少しのミスも許されないということだ。そんな状況下で、「ありのまま」など通用するはずもない。舐めるな、という話である。
このところは、3枚書いて2枚消し、という進行具合だ。あと5枚。出来ることなら今週中に終わらせて、早く楽になりたいのだが。週末には競馬があって …‥

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