「チュニジア ~」はタイトルに導かれ … 「タニマラ」メモ⑨2018.04.17
ああ、もう本番間近だ。先日の日曜、「タニマラ」の通し稽古のあと、スタッフ・出演者に「独演会」を見てもらう。ひとさまの目に触れるのはこれが初めて。当然のように緊張したが、それが集中力を促し、自分が自分でないような<イイココロモチ>になる。「ワーニカ」ではもう少しで泣きそうに。必死にこらえたが。途中から流れるエンケンの「美しいひと」のせいだろう、多分。終演後、みんなから、お上手、面白いとお褒めの言葉を戴いたが、まあ、身内の意見なので、ここは話半分と受け止めて …。さあ、このメモも本番前になんとかピリオド打たねば。「チュニジアの歌姫」の各シーンはいかなる具合になっているかというと …
プロローグ「母と子」 幕が上がると。舞台には、マルグリット・ユニック(M)と、彼女を相手に、自らが作らんとしている映画「鳥の歌(仮題」のストーリーを語るカール・ロスマン(K)のふたり。Kは出演交渉のためM邸に来ているのだが、劇の終盤、このふたりが実は、<母と子>であったことが明らかになる。タイトルがその<事実>を先取りしている、というわけだ。むろん、ふたりはその<真実>を知らず、いや、この<事実>が明らかになるのは、Mが亡くなったあと、若き日のMが赤ん坊を抱いている写真を見て、「これはぼくだ!」とKが勝手に(?)そう言い募るだけで、しかも彼は有名な映画監督の名を騙ってMの前に現れた男である、客観的には、真相は藪の中としか言えないわけだが …。因みに、Kが構想中の映画のラストシーンは。物語の軸となっている家族たちが遅い朝食をとっていると、窓越しに、大柄な若者がこちらに向かってゆっくり歩いてくるのが見え、その見知らぬ<新しい>若者の姿に、家族の誰もがなぜか懐かしい感情を抱く、というもの。これはわたしがずいぶん以前から構想していた話でもある。この家族たちは、互いの臓器を交換しながらみな生き延びてきていて、その度重なる臓器交換が、先の<新しい若者>を誕生させたのでは? というのがこのお話の核心である。
第一章「浮遊するもの」 前のシーンではKとMのほかには、女中のマリアしか登場しなかったが、このシーンでは全員が登場し、それぞれのキャラクター、及び、Mと娘の、マリアとテオの、Mと主治医のブラックの諸関係等々が、かなり分かりやすく(それら自体はひと筋縄ではないのだが)提示される。そして、プロローグでは、Kの申し出に首を縦に振らなかったMが、一週間後には、なぜかヤル気満々となっていることも。Kも、M邸がわが家であるかの如く振る舞っていて、台所に入り込んで料理人・オワールに叱り飛ばされたり …。
第二章「傷ついたもの」 Kが電話をかけているところから始まるこのシーン。相手はどうやら借金の返済を迫っていて、Kはなんとかすると答えるのだが、それはMをあてにしてのものらしく …。つまり、会って二週間足らずでKとMはそれほど親密になっている、言葉を変えれば、MはKにすっかりお熱状態に、というわけだ。Kの裏の顔(?)が見えてくる。仕掛け人はテオ。彼はパリのモンパルナスで、友人に誘われ、こんにゃく屋を始めたのだが、それがうまくいかず、彼もまた借金返済に困窮していてソノ筋から、生命保険をかけているKを殺したら、お前の借金は棒引きにしてやると言われ、Kにそのことを伝える。と同時に、おまえは有名な映画監督・カール・フレッシュではなく、本当は、モンパルナスでクレープ屋をやっているカール・ロスマンだろ、この事実をMにバラされたくなかったら、俺にまとまった金を渡せ、と迫る。むろんKは、笑って否定をするのだが …。このふたりのやりとりのあと、Mの娘のナディーヌ(N)が登場し、「二、三日でパリにお帰りになるって言ったのに、なぜいまだに …?」という彼女の質問に、Kは、「きみを愛しているからだ」と応える。その前に、KはMとの出会いを、「悶々とした日々を過ごしていたときに、ラジオから流れたMの歌声の<軽薄さ>に勇気づけられて …」と語っていて、そんな<軽薄さ>に憧れるような男の言葉を、真面目なNは当然のように受け入れず …。Nがその場を去ると、入れ替わりに、今度はMが現れ、頼まれていた映画の制作資金の目途がついたと話す彼女に、KはNを愛していることを伝える。それを聞いてMは …? 登場する誰もが、このシーンのタイトルに導かれたかのように<傷つくもの>となって …。(続きは次回に)