「ハワード・ホークス読本」(山田宏一著)を読んで …(泣)2018.06.13
お昼過ぎ。ベランダに出て、タバコの煙を吐きながら遠景を見る。並び立つビル群の向こうに緑色に染まった山々、その上方に青空が広がり、様々な形の雲があちこちに浮かんでいる。この刺激的時空間。いくら見ていても飽きない。詰らない芝居や映画とは比ぶるべきもない。時間の経過とともにその姿を自在に変える雲はやっぱり天才だ。
「ハワード・ホークス映画読本」(山田宏一 著)読了。H・Hを山田さんが書けば面白いのに決まっているが、なんとも言えぬ悔しい気持ちに襲われる。以前にも書いたことだが、なぜもっと早い時期にH・Hの映画を見ておかなかったのか、と。巻末のフィルモグラフィーによれば、彼が撮った(正確に記せば、関係した)映画は41本で、そのうちわたしが見たのは21本だから結構頑張ったものだが、しかし、見始めたのがいかにも遅すぎて。意識的に見始めたのは今世紀に入ってからだから、わたしはもう50過ぎ。バカめ、四半世紀遅いのだよ。
黒木(和雄)さんの「浪人街」、シナリオは笠原和夫氏が書いたことになっているが、実際は半分以上をわたしが書き直している(ラストの10数分にはノータッチ)。公にすべきことではないのかも知れないが、もう30年近く前の話だし、笠原氏ご本人も雑誌で、若い劇作家に自作が滅茶苦茶にされたと怒っておられたから、ま、いいでしょ。その経緯はというと。黒木さんから突然、ちょっと相談が …と電話あり、出かけていくと、「浪人街」のシナリオを差し出され、読んで率直なご意見を聞かせてほしいと言われる。もしかしたら、戦前にマキノ雅弘監督で撮られた、山上伊太郎のシナリオも同時に手渡されたかも知れない。家に帰って早速読み、翌日、電話で感想を伝えると、「やっぱり」と黒木さんはわたしの感想に同意され、もしも時間が許せば、2,3日でいいので、撮影している京都まで来て本直しをしてくれないか、と言われる。確か、翌週くらいに桃の会の「プラス・ワン」の公演があり、もうひとつ、NHKのラジオドラマ・シナリオの締切りも迫っていたのだが、原田芳雄さん、石橋蓮司さん、それに勝新太郎まで出演すると知って、NOと言えるはずもなく …。公演終了後。京都のホテルに缶詰めになって、いざ取り掛かったら、2、3日ではとても間に合わず。一か所直せば、それに関連するところにも手を入れる必要が生じ、どんどんネズミ算的に修正箇所が増えていって …。話が逸れてしまった。こんなことはどうでもよくて。その書き直しの最大ポイントは、樋口可南子さんが演じたヒロインのキャラクター設定で。笠原氏が描いた女性像は、氏の多くのシナリオ同様、男性の横暴きわまりない言動を耐えて忍ぶ<忍耐の女>で、それがわたしには古臭いというより陳腐に思われ、それでトリュフォーの「突然炎のごとく」でジャンヌ・モローが演じた奔放きわまりない女性をイメージしながら、かなり大胆に書き換えたのだった。しかし、この時点でH・Hの、例えばフランシス・ファーマーがヒロインを演じた「大自然の凱歌」など見ていれば! と、山田さんの本を読み改めて強くそう思ったのだ。もっとも、この時点(1989年)でこの映画を日本で見ることは不可能だったのだが。
山田氏は書いている、50年代の傑作「狩人の夜」「アフリカの女王」のシナリオを書いたジェイムズ・エイジーのローレン・バコール評を引いて「気取らない女、たのしい女、大胆で生意気な女、それでいて少女のようにういういしい美女」こそホークス的<夢の女>の定義であると。同感。わたしもいかにも女性的な<ベタ・クネ>媚び売り甘ったれ女優、自分の考えを口にしない<忍耐の女>は嫌いなんですよ。また、H・Hの映画では性別関係なく、「タバコを差し出せばそれは友情のあかしで、タバコに火をつければ、それは愛と信頼のしるしだ」という氏の指摘にも同感。モノの受け渡しは台詞のやりとりより上位の<交換>だから …とは、いつも稽古場で繰り返すわたしの<常套句>だが、これはおそらく、H・Hに触れた後から言い出したことだろう。ああ、H・Hには物語の運びの妙だけではなく、演出面においても大きな影響を受けていたのだ!
その自在性において、ハワード・ホークスは雲に似ている。見なきゃ損する、破格の映画監督だ。