竹内銃一郎のキノG語録

こんな映画がこれまであっただろうか? J・Jの「パターソン」を見る2018.11.11

「パターソン」を10日で3度見る。見るたびに新しい発見があるので、少し日をおいてもう一度また見たいと思っている。ま、それだけ暇だってことですが。

話は単純明快だ。推定年齢30代半ばと思われる男と妻(恋人?)と愛嬌たっぷりのブルドッグの、三人家族(?)の一週間が淡々と綴られる。ドラマとは葛藤だというのは極めてオーソドックスな物語の定義で、古今東西を問わず、小説や映画や演劇と呼ばれるもののうち、この定義から外れる作品はおそらく、100にひとつ、あるかないかだろう。ふたりの男が木の下で<ゴドー>なる者を待っているだけの、あの「ゴドーを待ちながら」ですら、途中でポッツォとラッキーという<かき回し役>のふたりが登場し、二度目の登場の時は、主従の関係が逆転しているという怪しげな<事件>まで添えられている。小津の「東京物語」や「晩春」だって、前者では主人公の妻の死があり、後者では父と娘の間に一時期ではあるが亀裂が走る。しかし、「パターソン」にはそんな事件らしきものはなにもない。あえて<事件>らしきことと言えば、男が毎晩、愛犬の散歩がてら立ち寄っているバーで、付き合っていた女に振られた常連客が、「死んでやる!」と言って銃を自らの頭に向けるが、すぐさま主人公が止めに入り、そして実は銃がプラスチック製のオモチャだったことが分かる、とか。主人公はバスの運転手なのだが、ある日、電気系統の故障でバスが止まってしまい、これまでの平穏がここから一気に不穏に切り替わるのかと思いきや、ただ乗客たちをバスから降ろし、代替のバスを待つだけ。乗客たちも誰ひとり抗議の声を上げることはない。ここまで徹底出来る、どう考えても只者ではない監督は、あのジム・ジャームッシュ(以下、J・J)。

彼(ジム・ジャームッシュ)は現在を生きる私たちが、未来に希望を持っていないことを『ストレンジャー・ザン・パラダイス』によって、はっきり見せてしまった。(中略)フィクションの時間はもう未来に向かって真っ直進まなくなってしまった。それはフィクションの構造にも、ストーリーやテーマの展開にも、両方にあてはまる。未来には希望も絶望もないけれど、「今」はある。見たり聞いたり感じたりすることが、今このときに現に起こっているんだから、フィクションだけでなく、生きることそのものも、過去にも横にも想像力を広げていくことができるのではないか。

上記は、これまでも何度か引用した保坂和志の、『きょうのできごと』柴崎友香著(河出文庫)の解説の一部であるが、「パターソン」は、この<保坂理論>に則ってさらにその先をいく作品になっている。「ストレンジャー~」には、まだ物語の欠片が残っていた。即ち、主人公のふたりは、いかさまポーカーで金を巻き上げたり、姪に会いにはるばる車で旅行をしたりするし、その次の「ダウン・バイ・ロー」は脱獄囚の話であり、わたしの好きな「デッド・マン」は殺し屋の話である。しかし、「パターソン」はまったくなにも起こらない。朝6時半頃に起きて、朝食のあと会社に歩いて出かけ、バスの運転席で秘密のノートに詩を書いていると、同僚が現れて愚痴をこぼし、走行するバスの車内の客たちの会話を耳にし、家に帰って夕食を済ませ、それから愛犬を連れて …。そんな<似たような>毎日が飽きもせず淡々と綴られるのだが、それが曲者、見るたびに日々の微妙な差異に気づかされ、そんな「発見の喜び」がまた見たいと思わせるのだ。(次回に続く)

 

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