瓢箪から駒が次々と、ゾクゾク。「淋しいのはお前だけじゃない」②2019.01.23
一昨日。京都に来た柄本さん、いま南座の舞台に出演している広岡さんと久しぶりに会い、上七軒のとても感じのいい小料理屋さんで楽しい夜を過ごす。柄本さんは3、4年前に京都で会っているが、広岡さんと会うのは、少なくとも今回のように数時間をともに過ごすのは、10数年ぶりのはず。なのに、懐かしいと思わせ情緒的な気分にならない・させないところが、広岡さんの凄さだ。柄本さんも、奥さんの和枝さんが亡くなった淋しさをほとんど感じさせない。これまた柄本さんの人間力=俳優力だろう(うん? わたしの鈍感力のせい?)。それにしても。先週は名古屋からドエライ話を携えて乗松が京都にやってきて、数日前には、もう20年近く会っていない久保田さんから、「2月3月は京都で時代劇の撮影があるので、久しぶりにお食事でも」というメールが届き。まさに瓢箪から駒的な、思いもかけなかった、この喜ばしき再会の波状攻撃はどうしたことだろう?
さて本題、「淋しいのは~」である。「嘘は真実(まこと)で真実は嘘で」という意味の台詞が繰り返し語られるこの物語。西田演じる取り立て屋と旅役者の木の実ナナ・梅沢は、多額の借金返済のため、言葉巧みに、借金を抱える5人の男女を一座に引き入れる、明らかな詐欺師トリオだ。むろん、騙される彼らは単なるお人好しではない。見られることの快感を実感(錯覚?)したこともあろうが、なにより、芝居を作るという共同作業から得られる喜びが、未知なる領域に足を踏み入れる、冒険心に火をつけたのだ。角度を変えていえば、嘘=虚構の世界=芝居に彼らは真実(リアル)を感じたのである。
第4話「土蜘蛛」で一座結成にこぎつけるのだが、旗揚げ公演の上演をと希望した篠原演芸場には、「素人芝居をうちの舞台に上げるわけには …」と断られ、篠原がダメならもう上演場所はない、解散? という話が首謀者トリオで話し合われていたまさにその時、妻(泉ピン子)から西田に電話が入る。自宅兼事務所から追い出され、路頭に迷っていた妻が、格好の物件を見つけたと言うのだ。指定された場所に行ってみると、そこはアノ、「今は昔、~」を始めとして、わたしも何度か使わせてもらった劇場「ザ・スズナリ」があった場所。かっては劇場であったらしい二階を一座の常打ち小屋にして、三階をみんなの住まいにと西田は思いつく。(「ザ・スズナリ」は、このドラマ撮影時もそしていまも、小劇場のメッカとなっている。この物語はフィクションです。誤解なきよう、念のため)
10日毎に迫られる、木の実・梅沢・西田が負っている借金2千万の利子40数万円の返済が、出来るか出来ないかという話が毎回のメインストリーとなっているが、上記のように、危機が訪れると、必ずどこかから思わぬ救い主が現れて、彼らは助かる。まさに瓢箪から駒が次々と出てくるのだ。第8話「雪之丞変化」では、萬田久子のファンの老人が、舞台で踊る彼女への花代として毎度ばら撒く万札によって救われ、第9話「切られ与三郎」では、西田の妻の初恋の相手(ヤクザ)によって40数万が賄われ。それらはいずれも、いささかの嘘臭さを伴っているが、それがまた、「嘘は真実(まこと)で真実は嘘で」というこのドラマのテーマをさらに強く押し出すことにもなっている。そして更に。第8話の、萬田が亡くなった彼の妻に似ているという理由から、劇場にやって来ては万札をばら撒いていた信欣三演じる老人は、持ち金がなくなって自殺し、第9話の、柴俊夫演じる西田の妻の元恋人も、刑務所から出て来たばかりなのに、香港へ高飛びせざるをえない事情を抱えてしまったらしい、一座の人々、前述の老人同様、市民社会から外れた<淋しい>男という設定になっていて、泣かせる。(この稿続く)