1981年 岸田戯曲賞受賞に関する … 活動の記憶⑭2020.05.28
「大鴉~」のチラシを見ていたら、思わぬ事実を発見した。劇団の住所が、西村(現・木場)の自宅の住所になっていて、連絡先の電話番号も彼の自宅のもの。しかし、翌年の2月に、斜光社のサヨナラ公演「Z」を上演した十条銀杏座で再演するのだが、こちらのチラシにある劇団住所は初演と同じだが、「予約お問い合わせ先」の電話番号は、王子の稽古場のものになっているのだ。ということは? 初演のチラシを作る時には、まだ稽古場が決まっていなかった、ということではないか。うん? それとも、単にまだ電話がひかれていなかっただけ?
戯曲は、「新劇」の1980年12月号に掲載。同じ号には、79年度の岸田戯曲賞受賞者である岡部耕大氏の「キャバレー」と、80年度の受賞者・斉藤憐氏の「黄昏のボードビル」とが掲載されている。そして、81年1月に「大鴉~」の受賞が決定。受賞作を発表する同誌3月号に掲載されている、わたしの「受賞のことば」の一部を以下に。
(前略)わたしは、わたしどもの芝居にお客が寄りつかないのは、単純に、女性客を魅きつける二枚目の俳優がいないせいだと考えているのだが、彼(注:自称興行責任者であるT氏=わたしのこと)の分析はいま少し知的な手続きを踏んでいるようだ。大衆的な作家はすべからく風景の私有者である、というのが彼の自論で、漱石から啄木、中也、太宰、大江、近くば寄って唐十郎、畏れおおくも吉本隆明馬鹿馬鹿しくもさだまさしまでをその論拠の例として、風景の非所有者であるわたしを非難するのだ。俺の風景は、檸檬やら畳やら口紅やらのオブジェの中に封じ込められているのだというこちらの反論には …(以下略)
これが掲載されている次の頁には、大和屋さんの「竹内君へ」という受賞を祝する文章が。その最後の部分を以下に。
要するに僕は、彼の純情が気がかりだったのだ。彼の無垢は悪の風俗を離れすぎているのではなかろうか? 彼の世代の哀しみはとても深い。時には深すぎて、事象が疾走するうちに置きざりにすることがある。 疾走するーー垣根を突破りアスファルトを突っきってどこ迄も走る。走るスピードに行きはぐれた或るものについて、或る時、彼は深く思い当たることがあったようだ。 何かこごるもの、凝視してふと動くと感ずることのあるものに、彼の劇的感性が仄き、くっきりと影を区切りはじめている。
このありがたきお言葉の次頁から、選考委員の方々8名の選評があるのだが、正直に申し上げれば、当時もそして現在も、残念ながら、大和屋さんの言葉のようにわたしの心に深く刻まれるような<お言葉>は少ない。なにより、久しぶりに読んで合点がいかないのは、候補作のひとつである北村想の「寿歌」に対する賞賛の言葉の方が、「大鴉」よりも多いところで、だったら、二作同時受賞にするか、あるいは、「寿歌」受賞でよかったのではないかと思わせるところである。それはそれとして。「新劇」に戯曲を掲載すると、原稿用紙1枚につき千円、受賞作として再掲載されても同額の原稿料を頂けたので、合わせて20万+α、それに、正賞の時計に副賞の20万、合計40万+αが懐に入ったので、受賞したこと以上に、「大鴉」一本でこんなにお金をいただけたことが、実に実にありがたかったのだ。