なるようになるわ 「あの夏の子供たち」の呆気なさは素晴らしい…2011.05.16
30歳の女性監督が撮ったらしい「あの夏の子供たち」のラストで、「ケセラセラ」が流れる。ヒッチコックの「知りすぎた男」だったか「間違われた男」だかで、ドリス・デイが歌っていたあの曲。
ケセラセラ。なるようになる、という意味。なるようになるとは、なるようにしかならない、ということだ。
上原なんとかって若い女の子が自殺したという。どういう事情があったか知らないが、痛ましいことである。また、ロッケンローラー・内田は、振られた女の家に不法侵入したらしい。脅迫してもいたらしい。
ケセラセラ、なるようになるわ 先のことなど分からない
これは「ケセラセラ」の日本語の訳詞である。しかり。ものごとはなるようにしかならないから、それがたとえ理不尽であっても、事実として受け止めるしかないし、先のことなど分からないのだから、自分の先行きを考えても仕方ないのだ。人生はままならない。競馬をやってるとそれが身に染みて分かるのだけど。ああ、先週も惨敗。どこまで続くぬかるみぞ
ところで先の映画のこと。中年の映画プロデューサーの、仕事に家庭サービスに、多忙な日々がドキュメンタリータッチで綴られるのだが、素晴らしいスピード感。物語の詳細は、いつか見るかも知れないひとのために明かさずおくが、エピソードの豊富さは通常の映画の量のざっと3倍ほどあり、けれど、そのひとつひとつを決して深追いせず、あっさりと次に移る。これが素晴らしいスピード感の秘密だ。
彼には3人の娘がいるのだが、長女(高校生?)を演じる女優さんは、美少女という言葉はきみのためにあるのだ、といいたいほどきれいな女の子。彼女は、父親の会社に映画の企画を持ち込んできた若い男と付き合うようになり、一夜をともに…という気になるエピソードも、成瀬の映画のそれと同様、大きくもなく重くもない出来事として片付けられる。その呆気なさが心地よい。