竹内銃一郎のキノG語録

触れるように触れられる工夫  「つながりの作法」を読む2014.10.31

急激な冷え込みにやられて、風邪をひいてしまった。当初はそれに気づかず、ネットのヤフーニュースに、「ソフト細川の息子ノーパン投球」とあって、なんじゃ? と興味津々で開いてみたら、ノーパンではなくノーバン、要するに、始球式でキャッチャーまでノーバウンドで投げたというもの。そこで、あれ、オレ、アタマ呆けてる? と風邪に気づいたのだった。丸二日寝込んで今朝ようやく恢復。しかし。子どもがノーバンで投げたくらいでニュースにするか、フツー。

 

河野哲也の「意識は実在しない」で触れられていた、「つながりの作法 同じでもなく違うでもなく」(NHK出版生活人新書)を読了。アスペルガー症候群の綾屋紗月と、脳性まひの電動車いすユーザーの熊谷晋一郎の共著だ。

綾屋の(生きていく上での)困難は、自分を取り巻いてる世界を統一体として捉えられないからであるらしい。例えば、先のわたしを例にとれば、熱がある、喉がひりつく、鼻水が出る等々の症状を「風邪」という言葉で統一し、それで、じゃ、しばらく寝ましょう、薬を飲みましょうということになるのだが、綾屋の場合は、ひとつひとつの症状は単一の現象としてしか認識できないらしい。もちろん、「風邪」という言葉を知らないわけではない。でも、それらをひとつにまとめることが出来ない。あるいは、われわれは、彼女の用語に従えばマジョリティな人間は、外部からの情報に優先順位をつけて、物事に対処している。例えば、レストランで友人と話をしているとする。当然、そんな場所だから、隣の席に座っている客やウェイトレスが厨房に注文の内容を告げる声も聞こえる。わたしたちは、当然それらの声は無視し、友人の声を優先して会話するわけだが、綾屋はそれが困難だというのだ。あれもこれも聞こえてきてしまい、会話が出来なくなってしまう。優先順位をつけられないということは、不必要だと思われることを省略できないということでもある。わたしたちはひとの顔をなんとなく認識しているが、綾屋はAさんの眉毛はこう、目はこう、口はこうとこと細かく認識していて、しかし、ひとの顔は化粧や体調によって日々微妙に違うから(そんなものわたしたちは無視しているわけだが)、わたしの目の前にいるAさんは、本当にわたしの知ってるAさんなのだろうかと不安になってしまうというのだ。こういう綾屋の経験を、もうひとりの著者である熊谷は、『情報や動きの「つながらなさ」によって引き起こされる困難の例』だとし、一方、熊谷自身の困難は、これとは真逆の「つながり過ぎ」によってもたらされるものだという。寒いときなど、われわれの体はギュッと力が入ってちぢこまり、各部位が容易にはバラバラに動いてくれないような状態になるが、彼の場合、それがいつもずっと続いてる状態なのだという。例えば、パソコンのキーボードを打つ場合、われわれは指先とそれにともなう手首だけを動かしているわけだが、彼の場合は、これが全身運動になってしまう、というのだ。つまり、われわれの場合の運動は、一部の部位だけが運動し、他はリラックスしている、互いに拘束しあわない、という風に成り立っているのだが、熊谷の場合は、緊密につながり過ぎていて、ほんの小さな運動でも全身運動になって、だから、すぐに疲れ果てることになってしまうらしい。

といって、この本は、こういう著者達の困難をのみ訴えているわけではなく、この「つながらなさ」「つながり過ぎ」は、いわゆる健常者・マジョリティと呼ばれるひとの中にも、同様の困難は芽生えているはずだと説いていて、こっちの方が眼目になっている。

確かに、われわれの日々は溢れかえる情報に囲まれ、そしてそれらの情報は目を凝らしても見分けがつかないほど微小な差異でしかないがゆえになにを優先していいのか分からず、その一方で、ラインに象徴されるような緊密にすぎる<私的な関係>に拘束されている。

演劇的見地(?)に立って読んでもなるほどと思わせる箇所もあり、それは以下の記述に見られる。

 

介助のように、身体への介入を伴う関係においては、「触れる」と「触れられる」が繰り返される。(中略)どちらも皮膚に何らかの異物が接触するという意味では同じだが、「触れられる」のほうが「触れる」に比べて、これから入ってくる感覚についてその質や量、タイミングについての予想が事前につきにくいために、びっくりしやすい。だから、怯えずに「触れられる」ことが可能になるためには、何よりもまず、介助者の体の動きをよく観察し、介助者の体に憑依していくような感覚が必要になる。相手の中に入り込んで「触れる」側とまなざしを共有することで、これから入ってくる感覚についての質や量、タイミングを予測しておく必要があるのだ。これを私は、「触れるように触れられる工夫」と呼んでいる。

 

ああ、また長い文章になってしまった。このブログでの文章は1000字くらいが適切と思っているのだが。

最後に告知を。先日上演された「Moon  guitar」の台本をお読みになりたい方、ご連絡下されば、データをお送りいたします。また、竹内の作品で、男ふたりで出来る台本はないか、無闇にひとが出る台本は? 等々のご質問があればお答えしますので、遠慮なくご連絡下さい。以上。

 

 

 

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