竹内銃一郎のキノG語録

なぜそんな風にまったりするの? 最近見たお芝居の話2015.04.20

昔はよかったなんていう年寄りがいるけれど、もちろん、それは大嘘だ。ゆっくりだけれど、世界は確実によくなっている。この国に限っていえば、在日や被差別部落出身者に対する差別は、明らかに昔に比べたら軽減されてる。ゲイ同士の結婚も認められつつあるし、セクハラだのモラハラなんて、そんな言葉も意識も昔はなかったのだ。スポーツだってもちろんそうだ。間違いなく、白鵬は大鵬や双葉山より強いだろう。しかし、例外もある。

NHKのサンデー・スポーツでONが対談。そこで彼らの現役時の映像が流されたのだが、こりゃ凄いわ、と感嘆。現・現役選手では、ヤクルト・山田や西武・森のスイングスピードは相当なものだが、長島の空振りは彼らの比じゃない。こんな選手、いまはいないな。巨人の現・4番バッター・坂本のスイング・スピードの約10倍の迫力!

CSの日本映画チャンネルで、来月から黒澤映画の連続上映が始まる。その前宣伝として作られた、関係者へのインタヴューで構成した番組を見る。語られていることのほとんどは既知のものだったが、「生きる」で主役を演じた志村喬は、当時47歳だったと知って驚く。アノ水沼氏と同年齢ではないか! 北野武も登場。こんなことを言っていた。

もう黒澤さんみたいな映画は撮れない。天気待ちとか、俳優の芝居が納得出来ないと、出来るまでやらせるみたいなことは。いまはお金もないし時間もないし、明日は朝からTVの仕事が …なんて言われると、ダメだとは分かっていても、みんな(自分も)適当なところで妥協しちゃうんですよ、と。

この一ヶ月の間に2本の芝居を見る。詰まらない。つい先頃見た芝居は、戯曲も読んでいて、実際の芝居はどうなっているのかと思ったら、どうにもなっておらず。戯曲を読んだ時、台詞の三分の一くらいはいらないと思った。サクサクと話を前に進めていけばいいところを、いちいち詰まらない突っ込みを入れたりして、無駄な時間をかけているように思えたのだ。が、実際の芝居は、読んだ時の印象に輪をかけて遅い。本題に入る前に必ず迂回する。その迂回の時間こそが大切と思っているかのようだが、広島に帰って来た黒田が、ドンドンストライクをとってバッターを追い込むように(そう、ウェスの映画のように)、とりわけ劇の冒頭は、観客に考える暇を与えないくらいのスピードが必要なのだ。バッターの打ち気をそらすとか、探りをいれるために初球はボールから入るとか、その感覚がもう古い。これは断じて趣味の問題ではない。黒澤の映画も小津だってそうしてる。「東京物語」は素晴らしいスピード感とともに始まっている。

2本とも、それこそ保坂和志が批判したTVドラマのように、ここぞというシーンになると、まったりしてしまう。大事な台詞だから大事に語る・語らせるというのが間違いのもとで。台詞に大事・小事の差別をすることがそもそもの間違いだ。ちゃんと観客に届ける必要があるのは、登場人物の名前とか、ここはどこであるとか等々の、物語を理解するための最低限の情報だけだ(と言うのは極論にしても)。ここぞという台詞をここぞとばかり<気持ちを込めて>喋らせるから、台詞だけが浮上して、それを語る人物(たち)が遠ざかり、舞台全体がまったりとした感傷的な気分で覆われる。眠くなる。

俳優の演技も演出も、確たる方法(意識)を持たないままやっているから、ずるずると、お芝居=嘘の塊の方向に流れていく。しかし。関西の演劇状況を考えると、これもしょうがないかも、と思ってしまう。みんな働きながらやっているから、稽古の時間がとれないのだ、多分。いや、本当は時間がないわけじゃなく、稽古の必要を感じてないからで、さらには、そもそも稽古はどうやってやるのかも知らないのではないかと、意地悪なわたしは勘ぐってしまう。

 

 

 

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