竹内銃一郎のキノG語録

思い出の「オカリナ事件」 戯曲「オカリナ …」を書き終えて2010.07.24

戯曲完成! 最後のあと5分ほどまで詰めたところで、読売よりつかさんの訃報が入り、追悼文執筆の依頼あり。
それで結局4,5日まるで書けなくなってしまった。つかさんの死のショックのためではなく、いや、ショックは確かにあったのだけれど、それより、「オカリナ」(=フィクション)モードから現実モードに引き戻され、そこから再び「オカリナ」モードに切り替えるのにすっかり手間取ってしまって。
フィクションの中で流れる時間は日常で流れるそれより何倍も濃い。使用している言葉はもちろん、なんのへんてつもない日本語を使っているのですが、論理の展開が日常のそれとは違い、大胆な省略や引き伸ばしや拡大等々の面倒な操作をしているので、それにはかなりのエネルギーを消費を伴う。なので、一度この楽チンな現実世界に戻ってしまうと、アタマもことばもすっかりなまってすぐには使いものにならない、というわけなのです。
今回の作品について簡単に触れておきます。
わたしと劇団員たちとをつなぐパイプは? と考えたのがそもそもの始まりです。
わたしと彼らとは、約40ほどの年齢差があります。改めて断るまでもなく、わたしから彼らへのすり寄りは愚というほかなく、かといって、わたしの関心の対象の方へ無理に彼らを向かせようという気もなく。
そこで、わたし自身の学生時代の記憶について語ることにしたらどうかと考えました。二十歳のわたしといま二十歳を生きる彼らと、なにが同じでなにが違うのか。そこを作品の核にすれば共同作業は可能になるのではないか、と。
多分、二十歳のころだと思いますが、わたしが「オカリナ事件」と呼んでいる出来事に遭遇したのです。当時の国鉄(いまのJR)は、始終ストライキをやっていて、なにかと言えば電車をストップさせていました。
そうそう、大学に入って間もないころ、国鉄のスト支援のために埼玉の大宮に行き、でも、ストライキには加わらず、同じストでもストリップ劇場に入ってしまったことがありました。
いや、そんな話はともかく。そのころ、わたしは当時埼玉の与野というところに住んでおり、大学から家に帰るには、池袋から赤羽線で赤羽まで出て、そこから京浜東北線に乗り換えなければなりません。
その日、京浜東北線が止まっていて、でも赤羽線は走っているから、京浜東北のホームにはどんどんひとが増えてきて、もう溢れんばかりの有様。時間は夜もかなり遅く、もしかしたら通常の終電の時間を過ぎていたのかも知れない。ほとんど全員が興奮状態になっていて、駅長室等に大勢の人間が押しかけ、「てめえ、このヤロー!」と駅員はつるし上げ状態。と、そのとき奇跡が起こった。ピーと聴いたことのない笛の音が響いてきて、音のする方向を見ると、長髪でひげも伸ばした若い男が、口元に両手をあててなにかを吹いている。最初は口笛かと思ったが、それにしては音のボリュームがただごとではない。とにかく美しい音色。「赤とんぼ」とかそういう誰でも知っている曲をつぎつぎと披露する。そしたらいつの間にか、ほとんど暴動寸前状態だった赤羽の京浜東北のホームが、すっかり鎮まって、みんな呆然とそれを聴いていたのです。
そのときは、いったい彼はなにを吹いていたのか分からなかったのですが、それからしばらく経ってTVのニュースで、もしかしたらローカルニュースだったのかも知れない、川口(埼玉)在住の、珍しい楽器を吹いている若者が紹介され、それは間違いなくあのときの彼。名は「そうじろう」と言い、あの笛はオカリナというのだということを知ったのでした。
今回の戯曲の内容といまの話は、まったく関係はありません。ただあの日の出来事が深くわたしの記憶に刻まれていて、あのときの<衝撃>を作品化したと、そういうことです。
若い諸君との共同作業を前提にして書いていると、わたしはどうしてもナイーブになってしまって、大人相手の芝居だったら多分書かないであろう台詞や事柄を書いてしまいます。それがいいことなのかどうか自分ではよく分からないのですが、とりあえず、「作品の間口が広がってるのかも?」とよいほうにとらえています。
ご来場、待ってマース。

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