竹内銃一郎のキノG語録

本を出すということは、他人の無理解にさらされることなのに2010.07.27

つい最近、某氏から腹立たしい話を聞いた。あるひとの戯曲を上演したい旨、連絡をとった、と。で、カンパニーのメンバーにあわせて、男性の登場人物のひとりを女性に変えて上演させてもらいたいが、と伝えたところ、上演願いを出してしばらく経った最近、公演もそろそろとなったところへ、まかりならぬとのお達し。
こういうアタマの悪いひとってよくいる。よほど自分の作品が可愛いのだろう。自分の意図したところから外れたものは許さない、ということなのだろうが、ほんと、馬鹿じゃないの? それこそ十人十色で、読み手は様々に解釈するわけだし、いうなれば自由な誤読を許すことが作家・作品の容量の広さ・大きさの証でもあるわけでしょ?
このひと、例えば、元々は男優のみで演じられることを前提に書かれたシェイクスピアの作品が、現在、女優さんが演じたりしてること、苦々しく思っておられるのだろうか?
以前、安部公房氏の「友達」の上演を断られたことがある。もう安部氏は亡くなられていて、娘さんが上演権を持っておられたのだが、その娘さんにどうもわたしは嫌われたらしいのだ。理由はどうのこうのと言われていたが、多分、「ユリイカ」の安部公房特集で、わたしがかなり辛らつに安部さんの戯曲を批判していて、それを読まれていたのだろう。でもでも。安部さん自身は生前、彼の戯曲「榎本武揚」をわたしが演出する際、このままでは芝居にならないと、わたしが半分以上書き直したものを、「面白いね」と認めてくれたのだ。太っ腹!
著作権は認めなければならない。でも、いったん公にされた作品はみんなのモノではないのか。公になったとたんにもう、見も知らぬ他人にいいようにされる、無理解にさらされる。それがいやなら、本になんかしなければいいのだ。芝居を作っても知ってる内輪のひとだけに見せればいいのだ。

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