竹内銃一郎のキノG語録

フレームという安全装置 「股旅 三人やくざ」を見る。2014.09.14

「トト・ザ・ヒーロー」と「ウェディング・バンケット」を見る。ともに初見。ともに90年代初めに公開。ともに、「映画通100人が選んだ”発掘良品”」という触れ込み。
以前にも書いたが。なにかを選んだり決定したりする際、それにかかわる人間の数が多ければ多いほど、その決定はより正しいものに近づく、公正性が保障される、という考えは間違っている。平均・フツーに近づくだけだ。
映画通の100人の顔ぶれがどんなものか、どういう過程を経て<良品>が選ばれたのか。その肝心要が分からない。
当然のことながら好きな映画の趣味・嗜好は100人100様だから話し合いなどでは決まるはずもなく、投票かなにかで決めたのだろうか。選ばれた作品は結局、よく出来ているけれど無難な、というようなもので、多分誰もが、投票の結果に満足していないと思われる。万人向け(=平均・フツー)というのは、要するに主体の放棄で(=選んだひとの顔がない)、だから、誰もそこそこにしか満足しないし、させられないのだ。
「トト・ザ・ヒーロー」
主人公は老人。彼は長らく殺意を抱えていて、その対象は隣に住んでいた自分と同じ生年月日の男。
主人公のトトは、生まれて間もない頃、産院が火事になり、その騒ぎの中で、自分と隣の男はすり替えられたと思っている。つまり、自分は本当は隣の家の子供だと思っているのだ。本来は自分のものであるはずのものが、隣の男にみんなもっていかれてしまって、大好きな姉さえも隣の男に靡いてしまった …‥。成功と幸福に包まれた彼の人生。それに引き換え自分は、ああ、なんという失敗と不幸の人生!
トトが殺人を実行しようとしている、殺人に近づいていく現実の時間と、これまで隣の男のために味あわされた数多の辛酸=過去とを往ったり来たりさせながら、物語は綴られる。
その語り口は巧妙だ。とりわけ、物語の軸になっている姉との近親相姦めいた関係の描き方は精緻でハラハラさせられ、障害をもって生まれた弟との交流に見せるトトの優しさにも心打たれる。そして最後に用意されたどんでん返し。
確かに、さあ、次はどうなる? という、物語を追いかける楽しさは、映画を見る悦びのひとつだが、それは数多ある悦びのひとつでしかない。この映画は、残念ながら(?)、結末まで見てそのストーリーを知ってしまうと、それで終わってしまう。だから、わざわざ見なくても、ストーリーを教えてもらえばもうそれで十分だと思ってしまう。
「ウェディング・バンケット」も同様な感想をもった。
舞台はニューヨーク。中国人のゲイのサラリーマンが主人公。彼は恋人(もちろん男性)と同棲している。
主人公の実家は裕福で、彼は父が出資した家作を所有していて、そこには芸術家の卵の中国人女性が住んでいる。
ある日、田舎の父が重病であること、そして父の夢が、生きている間に孫の顔を見たいというものであることを知る。
孫はともかく、せめて父が生きている間に結婚をして安心させてやりたいと彼は思い、同棲している男のアイデアで、先の芸術家の卵と偽装結婚をし、両親をニューヨークへ呼ぶことにする。卵の女性も、就業ビザが間もなく切れて、このままではニューヨークにはいられない、結婚すればその難局を乗り切れる、というわけで、その提案に乗る。
両親がやって来る。盛大な、盛大すぎる結婚式。女性の妊娠。ゲイであることが両親にバレてしまう、等々あって …‥
これらのエピソードが手際よくまとめられている。女性の妊娠を知った主人公は、はたしていかなる選択をするのかと、これまた、さあ、どうする? と物語の先行きに好奇心をもたざるをえないような作りになってはいるのだが …
映画を見る悦びは、映画でしか味わえない悦びであるはずだ。それは多分、先にも記したように、ストーリーがもたらす悦びではなく、ストーリーという<フレーム>からはみ出したものであるはずだ。
どんなに素直なひとでも、スクリーンの向こうで起きている事柄はすべて嘘っぱちであることを知っている。例えワニが大口を開けて迫ってきても、驚きはするけれど、自分の身が危険にさらされているとは思わない。
でも時に、スクリーンというフレームからはみ出して、<リアル>と感じさせられることが起こる。
一般に、フツーを感じさせるもの、嘘を感じさせないものが<リアル>だと思われているが、それは逆で、ひとは、フツーじゃないことに接したときに、つまり、常識と言うフレームが取っ払われてしまった時に、<リアル>を感じるのだ。
傑作という噂だけを知っていた「股旅 三人やくざ」を見る。
家・家族・生まれ故郷を捨てた三人の旅人を主人公にしたオムニバス。それぞれ独立した3話が綴られる。
第一話の季節は秋。兇状持ちの旅人があるヤクザ一家にワラジを脱ぐ。その一家の子分は、彼に敷居をまたがせるとお上からお咎めが …、と心配するが、親分は、ヤツは他の一家にもワラジを脱いでここまで来たのだ、なのに、おれのところで厄介払いしたとみんなに知れたら、器量のないヤツとバカにされると考え、彼をむかい入れる。
この一家が経営している女郎屋に、メンドーな女がひとりいる。時々、川向こう(?)から彼女を引き抜こうとする男たちがいて、彼女もそれに応えて、包丁を振り回して逃げようとするのだ。
主人公は彼女の監視役を仰せつかる。初めのうちは男に背を向けていた女だったが、ふたりきりの時間を過ごすうち、少しづつ心を開くようになる。主人公の「そんなにその男が恋しいのか」という問いに、女は意外な返答をする。
自分は、その男の顔も体もなにも覚えていない。だって、一度来ただけの客だもの。でも、そんな一度しか会っていない男が、自分みたいな女のことを好きだと言ってる、だから、それに応えたいのだ、と。
その男が女の生きる希望なのだと知って、主人公は動揺する。彼はとうの昔にそんな<生きる希望>など捨ててしまっているからだ。
主人公は、川向こうへその男に会いに行く。しかし、彼はいない。女を奪いにやって来ている男は彼の弟で、当人は女の身請けに必要なお金を稼ぐために、首に賞金がかかってる兇状持ちを殺すために旅に出てる、と聞かされる。
うーん。話がうまく出来てる。映画の冒頭、暗闇の中でしつこく自分をつけ狙ってる男を、主人公はばっさり斬り捨てているのだ。そして、その男の懐から転がり出た女物の櫛を、なんとなく気になって、彼は持っている、と。そして …
この哀しすぎる女郎を演じる桜町弘子が素晴らしい。それこそ、物語のフレームからはみだして、彼女の抱えてきたと思われるこれまでの人生の労苦が、見るものにじかに迫ってくるような。
対照的に、主人公を演じる仲代達也、ニヒルな男という<キャラ>のフレームの中に収まったまま、微動だにしない。
春をバックにした3話で、ヘナチョコヤクザを軽妙に演じる中村錦之助がこの役を演じていたら、と思わずにいられない。
「役」とは演じるための衣装(=フレーム)に過ぎない。そのかりそめの衣装を脱いで自らの裸=生き方を見せる。これが俳優のなすべきことだ。
うん? 少し表現が大仰に過ぎたか。言葉を変えよう。
100人のヤクザがいるとして。彼等はきっとどこか似通ったところがあり、それを典型と呼び、やくざらしさとはそういうものだろう。しかし、100人のヤクザには100通りの顔があるはずだ。典型=フレームからはみ出し、100の顔からひとつを選びとること。そのことを可能にするためには、演じる役との限りない対話が必要だ。役に聞く、聞く耳をもつこと。俳優がなすべきこととは、役が語る言葉への返答を(自らの歴史が刻まれた)身体で明らかにすることだ。
桜町弘子というひとがいったいなにを考え、どういう人生を歩んできたのか。その実際を知るはずもないが、しかし、この映画の彼女にそういうあるべき俳優の真摯さを感じ、仲代氏にはそれが感じられない。そういうことだ。
監督は沢島忠。桜町の素晴らしさもまた、沢島・桜町の間に交わされた濃密な対話の産物であろう。
断るまでもなく、濃密な対話とは、言葉の量の問題ではない。なにも語らずともそれは成立する。
共感の有無。それが問題なのだ。

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