竹内銃一郎のキノG語録

塗り残し? 全自作データ化に向けて②2017.05.11

「チュニジア~」の改訂、冒頭のKの長台詞での座礁状態がまだ続いている。イマイチな台詞を削除したのだが、そこへ入れるべき台詞が浮かばないのだ。埋めなくてはいけないのだろうか? 空白のままでいいのではないか? そもそも芝居に台詞はいるのか? という初歩的かつ根源的な疑問に苛まれている今日この頃。

数日前から前田英樹の「セザンヌ 画家のメチエ」(青土社刊)を読んでいる。奥付を見ると、2000年2月第一刷発行とあるから、読むのは17年ぶりになるのか。なぜこの本を手にしたかというと、少なからずのひとはご存知のことと思われるが、セザンヌのとりわけ後期作品には「塗り残し」のある絵が何枚もあり、そのいわば<空白>は、光の表現であるとか、演劇における「異化効果」のようなものだ等々の理解がなされているようだが、数ある中の何枚かは、ベストチョイスを求めて得られなかった結果ではないか、途中で描くのを放棄したものではないかと、わたしには思える。真相は分からない。しかし、ハッキリ言えるのは、その塗り残し=空白によって、描かれている対象の実在感がグイとこちらに迫ってくる、と言うことだ。

今日のお昼前。奥さんと一緒に相国寺の承天閣美術館へ「若冲展」を見に行く。入場料が65歳以上600円。な、なんという安さだ! 若冲の絵は、世間の評価が高い鶏等を描いた極彩色のものよりも、鶴や菊等の動植物をさらさらとを描いた水墨画の方がわたしは好きだ。布袋さんのお尻をどかんと真ん中に据えた絵に笑い、烏に似た黒い叭叭鳥が、襖の真ん中を鋭く横切っているカッコよさに唸る。水墨画は塗り残しだらけの絵である、今更だけど。

前述の前田英樹の本を読む前だったか後だったか。いずれにせよ20年近く前、横浜美術館へ「セザンヌ展」を見に行き、帰りに買った図録を改めて見てみると、水彩画が幾枚もあり(全然覚えていない!)、それがなんとなく水墨画風なのだ。残念ながら(?)若冲にあるユーモアは感じられないけど。

戯曲の一部を空白に? その部分は即興で? そう、コントの台本なんか、一部を空白にして「ここんとこよろしく」なんて書いたりするようだけど。こういうのは「即興」ではなく「手抜き」と言う。考え抜かねば。

 

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