竹内銃一郎のキノG語録

キノG-7とわたし個人の近況報告2017.09.04

いやあ、大変だ。6回連続公演! なんて大それたことを企画したもんだ。その昔、自由劇場が1年に12本の公演をしたことがあったけど、アレは劇団だから出来たんだな。劇団員がいっぱいいて、自前の劇場も持ってたし。こっちは、劇場を押さえなきゃならん、出演者も探さなきゃならん、稽古開始まで一か月を切ってしまったので、演出のプランも練らなきゃならん、というわけで。河田や武田さんがお手伝いしてくれてはいるけれど、やっぱり人手が足りない。制作担当者が2、3人もいれば、もう少しきめ細かな情宣も出来るんだろうけど、そこまで手が回らない、という切ない現実。

テキストは8月中に6回分すべて仕上げる予定でいたが。来年4月に上演予定の「コスモス狂」は完成まであと少しのところにきているが、最後の「動植綵絵」はまだ手つかずのままだ。Ⅰ~Ⅳの出演者はすべて決まって、その顔触れには満足しているが、前述の二作はまだ。出演者がすべて決まればテキストの方向性も決まり、そうなれば作業のスピードは格段に上がるはずだが …。

先週、仕事で京都方面に来た音響の藤田(赤目)くんと会い、久しぶりに歓談。あれこれ話す中で、いま東京でもリーディング公演は流行りモノであるらしいことを知る。理由は簡単で、やっぱりお金がかからないから、ということらしい。そうだ、今日、保からも来年1月のリーディング公演の出演オファーが、という話を聞いた。みんなどんなことをやっているのか。なにも知らないで書くのもアレだが、なんとか、そういう安易な流行りモノとは一線を画した、「新しい劇」を作り上げたい。

何度か前に、円生の落語「包丁」のことを書いたが、あれからもう一度見て、またまたその超絶技巧を発見し、舌を巻く。ふたりの男が酒を飲みながら話をしている場面で。確かにふたりとも酒を飲んでいるのだが、盃を左手に持ちながら話す弟分と、徳利を傾けながら話す兄貴分を明快に差別化しているのだ。そして、盃・徳利を持つ右腕の肘の角度の微妙な差異化。それをわれわれ客にはすぐに気づかせないのだから、凄いというほかはない。名人という称号はこのレベルまで達したひとにしか与えるべきではないと思った。

日曜日。WOWOWで志の輔の新作落語を見る。結構笑ったが、特に感銘するところなし。でも、多くの落語ファンはこういうものを落語と思っているのだろう。もちろん、それを非難・否定をするつもりはないが。談志はあまり好きではないが、落語を「人間の業を肯定するもの」とする彼の定義には同意する。先に、円生の技巧は超絶と書いたが、彼の超絶技巧のベースには、人間あるいは世界に対する見方・考え方があるのだ。それを一言で言えば、またかと思われるかもしれないが、「非情の眼差し」である。「非情」とは、情け知らずという意味ではない、善も悪も同等のものとする見方・考え方のことで、要するに、情緒的なるものに溺れない、ということだ。マスコミを筆頭に多くのひとの見方・考え方はこれとは真逆で、安部首相やトランプが失態を犯せば一斉に非難の声を上げ、その声と芸能人の不倫に対するそれとはまったく変わらないという事実の先には、おそらく、犬や猫をいとおしむ「優しさ」があるはずだ。

 

 

 

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