竹内銃一郎のキノG語録

沈黙は媚態の対極2018.09.27

朝晩ずいぶん涼しくなってきた。ほんの一ヶ月前まではあんなに暑かったのに。あとひと月もすれば、あの猛暑の日々の苦闘の記憶もすっかり失せてしまうだろう。人間はおそらく動物の中でもっとも忘れっぽい種である。ということは? わたしは子どもの頃から物忘れの名人だったが、ここに来てその度合いが激しさを増している。しかし、それは決して忌むべきことではなく、<人間の真の姿>に近づいているのだから、むしろ喜ぶべきことなのかもしれない。それにしても。記憶の仕組みはどうなっているのか。今日のお昼、NHKBSで放映されていた映画「冒険者たち」の監督名・ロベール・エンリコは、スッと出てきたが、わたしの好きなケン・ローチの名前はいつも思い出すのに時間がかかるのである。

録画しておいた、そのケン・ローチの「レイニング・ストーンズ」(1993 公開)を見る。冒頭の、牧草の緑で染まる谷間をふたりの男が羊を追いかけまわすという漫画チックなシーンからは、およそ想像するのが難しい内容と結末。彼の他の多くの作品と同様、貧困と闘う家族の話だが、笑いあり涙あり、更には身の毛のよだつような暴力シーンまであって、途中、いったい最後はどういうところに納まるのかとハラハラしながら見ていたが …。奇蹟的と形容したい嬉しい結末。やっぱりケン・ローチの映画は面白い。見終わったあと、これはアレと似ているのでは? と思い出したのが、イランのアスガル・ファルハーディーの傑作「別離」(2011 公開)。両作ともに、その程度に差はあるが貧困と闘う家族の話で、子どもとそして神・宗教が物語の重要な位置を占めている。更に似通っているのが、演出の方法だ。ケン・ローチが多くのシーンを即興で、つまり、そのシーンの内容と大まかにこんなセリフでと出演者に伝え、あとは彼らに任せて、という方法をとっているのは知っているが、A・ファルハーディーも同様の方法で撮っているのではないか。そうとでも考えなければ、あのリアリティは生まれまい。久しぶりに見た「別離」。白眉は、主人公と彼の家にお手伝いでやってきたと女性との間にトラブルが生じ、取り調べの検事(?)を前にしての、主人公+妻VSお手伝い+その夫の激しく言葉をぶつけ合う、迫真のバトル・シーン。その眩暈さえ覚えそうな迫力は、他に例がないほどのすさまじさだ。そして、その激しいやりとりを黙ってじっと見ている子どもたちの眼差しの凄いこと! 主人公と同居している彼の父親は、物言わぬ認知症患者という設定なのだが、これも本物としか見えない。「トーキー映画は沈黙を発明した」とは、ロベール・ブレッソンの言葉だが、この映画のラストは、その言葉を地でいくシーンとなっている。映画は、主人公と妻が、判事(?)の前で、離婚するかどうかを巡っての言い争いから始まるのだが、先に記したような面倒な事件に決着がついてのラスト、ふたりの離婚が決まり、中学一年生のひとり娘は、父・母どちらと一緒に住むかと判事(?)に問われ、彼女が言い淀んでいるのを見て、判事(?)は両親に部屋からの退去を命じる。そして、シーンは廊下に変わって、離れたところに立って娘の結論を待っているふたりをロング・ショットで捉え、あんなに激しく言い争ったふたりに訪れた、この沈黙の時間は永遠に続くのでは? と思わせるかのように終わるのである。

因みに、レイニング・ストーンズとは、「石が降ってくるように辛い生活」という意味であるらしい。

 

 

一覧