竹内銃一郎のキノG語録

大満足! 東京乾電池の「眠レ、巴里」を見る。2019.05.26

土曜日、東京乾電池の「眠レ巴里」を見る。東京まで行った甲斐があった。快作!

公演場所は下北沢にある乾電池アトリエ。下北沢は、幾度となく公演したザ・スズナリや本多劇場があり、3,4年前に大人計画の平岩紙さん、近藤公園さんのふたり芝居「あたま山心中」を見に来たことがある。しかし、乾電池のアトリエに行くのは初めてなので、サイトにあった地図を抜き出したのだが、哀しいことに、わたしは方向音痴でなおかつ地図が読めない。なので、開演時間の1時間ほど前に下北沢駅に着いたのだが、驚いたことに、駅はまるで様変わりしてしまっていて、わたしが知っているシモキタの欠片さえ残っていない。しかも、地図には「北口より徒歩8分」とあったのだが、その北口がなく。てな大事件(?)に見舞われたが、無事、開演前に到着。ありがたいことに、劇場前で柄本さんが出迎えてもくれて。

芝居というものを年に数本しか見なくなって、もうかなりの年月が経つ。一言で言ってしまえば、時間とお金をかけて出かけても、それに見合う刺激を受けることなどほとんどないからだ。だから今回も、正直なところさほど期待があったわけではなかったが、柄本さんが「監修」として今回の公演に関わっておられることを知り、10月にキノG‐7で「眠レ~」を上演するので、その参考になれば、と思って出かけたのだ。それが!

まずシンプル極まる装置に驚く。床全面には、照明を当てると光る柔らかそうな銀色っぽい白い布が敷かれていて、三面の黒壁には、幅10センチ弱ほどのポリ製の紐(?)によって、おそらく巴里であろう街並みの遠景が描かれている。この戯曲に設定されているシーンは4つあり、最初の3つは、世間との関りを断って籠城し、最後には餓死した姉妹の部屋であるが、彼女たちは妄想の中でここを「パリの三ツ星ホテル」の一室としている。だから、都営住宅の古い一室とパリの高級ホテルの一室と両方をイメージさせなくてはならず、さらにシーン4は、サラ金の取り立て男の部屋なので、実にどうもセット作りが面倒なのだ。それが前述したように、白黒2色で決められていて。なにか、ズバリ真ん中へ直球を決められた感じ。セットは舞台に立つ俳優の背景であってそれ以上でも以下でもない、というのがわたしの基本的な考えだが、まさにそういう感じで、俳優たちも引き立っていたのだ。

演じるふたりは見知らぬ若い女優さんで、最初は「これ大丈夫か?」と不安を感じた。作家であるわたしからすると、台詞のやりとりが早過ぎて話の中身が分かりづらく、また、隣近所及びサラ金に、自分たちがここにいることを気づかれぬよう生活しているにしては、声がデカ過ぎじゃないか、と。しかし、そのスピード感と声のデカさが、消える寸前のロウソクの明るさを思わせ、「これもあり」とわたしは思った。また、先にも書いたように、ふたりの女優さんのことは何も知らないが、これは彼女たちの生き方=自己主張ではないか、とも。言うまでもなく、俳優も作家=表現者である。演技とは変身、与えられた役になりきるのが俳優の仕事という考えが未だに業界・世間にはびこっているが、鈴木忠志さんの言葉を借りれば、「演技とは変身ではなく、顕身」で、これを(高倉)健さん風に言えば、演技とは「自らの生き方の表明」なのだ。「顕身」とは、日々の生活の中では<隠し、ひそませているわたし>を舞台という場で顕す、ということである。何度か前に橋本治に触れて書いたことを繰り返せば、より多くのひとに認められるということを前提とする「自己承認欲求」ではなく、たとえ誰にも理解されなくても構わない「自己の主張」であるべきなのだ。この表現の根本を彼女たちの演技に感じたのである。確かに、戯曲とのズレはあったのだが、しかし、自らが演じる役を<衣服>だとすれば、それは<着こなすもの>としてあるのではなく、<脱ぐためのもの>、即ち、現在の自らを表明するためにある。だから、「ああ、見事な脱ぎっぷりだあ」と、見終わったわたしは大いに満足したのだった。

う~ん。今日のダービーも同様の気分にさせていただきたいのだが …

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