竹内銃一郎のキノG語録

ワンチーム?2020.01.11

去年の暮れ、TVやネットで「忘年会スルー」という言葉を度々目にした。インタヴュアが若いOLにその理由を訊ねると、「アルコールはそれほど好きではないし、上司等にお酌をして回らなければならないので食べることも出来ないし、飲めない・食べられない自分が同額の会費を払わなきゃいけないなんて …」と言っていた。おっしゃることはもっともだと思ったが、しかし、忘年会スルーの理由はそれだけではあるまい。去年の流行語大賞は確か「ワンチーム」という言葉に与えられたはずだが、その種の若者たちはそれとは逆の、<反・ワンチーム傾向>にあるのではないか。彼らにとって仕事は給料を得るための与えられた責務に過ぎず、共同作業から得られる達成感・喜びはさほどのものではなく、それを果たせば、あとはひとりで好きにさせてほしいと思っているのだ。彼らには、共同体とは即ち「個人の自由を制限・束縛する場所」としか思えないのだ。劇団はその典型例だ。この国に現在ある劇団の9割以上は多分、作家・演出家と制作、俳優を合わせて合計2,3人で構成されていて、稽古=共同作業をするのも年にせいぜい数か月、そもそも、2,3人の集団を共同体=劇団と呼ぶのは無理がある。

「ワンチーム」は、W・カップに出場した日本のラグビー・チームの合言葉である。多くの人々は、予想を超える結果をもたらしたのは、その「ワンチーム」という言葉の力に違いないと思い、それは自らが「ワンチーム」の実感を持ちえない日々を過ごしているからこその確信なのだ。

なぜ少なからずの若者たちは、<反・ワンチーム傾向>に流れるのだろう。それはおそらく、いま自分はなにをしたいのかが考えられず、将来の自分の像を思い描くことが出来ないからではないか。自分が見えないから、他者からの指示をうざったく思い、少々の考え方の違いを決定的な差異だと考えてしまう、だから、自分のいる共同体を受け入れられない。そういうわたしだって若い頃は、自分の将来像を想定できなかったが、いや、ほんの数年前まで自分はなにをしたいのかもよく分らなかったのだが、それでも、まあ、なんとかなるさと思って演劇などに関わっていたのだ。多分、現在の若者の多くは、この「なんとかなるさ」を想うことが難しいのだ。わたしが若かった50年前と現在とはなにが違うのか。単純な答えになるが、世の中の閉塞感の有無、もっと分かりやすく言えば、50年前のこの国は頑張れば、いや、それほど頑張らなくても、なんとかなるさ、食っていけると思えたのに、いまはそうは思えない閉塞感に覆われているのだ、多分。

上記の思考のもとに作られたと思われる日本映画を去年の暮れに見た。今年の6月に上演するキノG-7の第二弾は、わたしが伏見桃山に住んでいた数年前、自宅で開いた「戯曲講座」の受講生だった殿井歩さんの新作上演になるのだが、去年の暮れ、同じくその講座の受講生だった植田さんから、「自分が出演している映画を出町座で上映するので、お時間あれば …」というメールが届き、舞台挨拶にも来るというので、それを見に行く。正直なところ、それほど期待していたわけではなく、映画の始まりはわたしの推測に沿った、なんとも退屈な調子で始まった。全編ワンシーン・ワンカットで撮られているのだが、その手法が緻密な思考からの逃避の結果のように思われたからだ。しかし、半ば過ぎからであったか、その「ワンシーン・ワンカット」スタイルが効いてくる。例えば、全編、仏頂面に終始するヒロインと、植田さんが演じた同じカフェで働く女性とが、店の前に置かれた椅子に座って何事かを語り合うシーン。話の中身は忘れてしまったが、延々と続くそのワンカットが、まるでふたりが抱える閉塞感を物語っているように思われ、また、終盤、友達らしき3人の男の子(20台後半?)の中のふたりが、ひとりを「あいつ調子にのってるから」というような理由にもならない理由で、殴る蹴るの暴行。カメラは移動するのだがノーカットで写し撮られるそのシーンも、なにをしたいのか、どう生きたいのかが分からない彼らの現実を、実にリアルにあぶり出していたのだった。しかし(?)、

この映画とは真逆の、いま自分はなにをしたいのか、すべきことはなんなのかが明快にあり、その思いとともに、アルゼンチンからポーランドまで長い長い旅に出る、90近い老人を主人公とした、とんでもない傑作を見た。この映画、「家(うち)に帰ろう」については次回に。

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