竹内銃一郎のキノG語録

とんでもない傑作! 「家へ帰ろう」を見る。及び「お嬢ちゃん」補遺。2020.01.14

本題に入る前に、前回の補遺を。少しアルコールが入っていたせいだろう、現代の若者の在り方をリアルに描いたとして取り上げた映画のタイトルを書き忘れてしまっている。タイトルは「お嬢ちゃん」。監督は二ノ宮隆太郎。以下、取り上げたシーンの補遺。

主人公と植田さん演じた女性ふたりのシーン。語りあっていたのは、これからどうする? というような話で、ヒロインは東京へ行くといい、植田さんはここが好きだからずっとここにいたいという。しかし、東京へ行ってなにをするのか、なぜこの土地から出ないのか、具体的にはなにも明らかにされない。きっとなにもないのだ、なにもないから焦るのだ。会話するふたりを、カメラはほぼ同じサイズのまま捉えていて、その不動に近いフレームがふたりの動けない<閉塞状況>を如実に物語っている。もうひとつは男性3人の格闘(?)シーン。襲われた方の男は、「なにすんだよ」などと言いながら逃げ回っているうちに捕まり、転がされ、ふたりに蹴られるのだが、通常の暴力シーンならば、蹴られた男の苦痛に喘ぐ表情や、転がった男の腹部に突き刺さる蹴り脚のアップ等が挿入されるはずだが、そんなカットは当然のように一切なく、蹴り・蹴られる3人をかなり離れたところから、言うならば、カメラは3人とは無関係/無関心な距離から、そのえげつないシーンを淡々と撮っている。この喧嘩の熱っぽさを微塵も感じさせない<不愛想な距離間>が、彼らは親しい友人ではなく、<反ワンチーム>思考の持ち主であることを、明らかにしている。この国の現在の映画・TVドラマの大半は、<媚態の巻き散らかし>を基本形としているが、この映画はそこから遠く離れていて、見終わった当初、このリアルさは、本番前に監督が各シーンの設定を出演者に伝え、会話のやりとりは即興でなされていると思っていたが、植田さんに、「台詞はちゃんと書かれています」と、聞かされて驚く。いかん、補遺が長すぎてしまった。「家に帰ろう」に移ろう、ホイツと!

90歳間近の片足の不自由な老人が、アルゼンチン(ブエノスアイレス)から、生まれ故郷であるポーランド(ウッチ)を目指す、その旅の過程で、様々なひとと出会って助け助けられ、幾つかの想い出がよみがえり、時に現実と幻想が交錯する、かいつまんでいえば、「家に帰ろう」はこんな映画である。

ネットで調べたところによると、監督のパブロ・ソラルスは現在50歳で、監督としての作品はこれが2本目で、主戦場のアルゼンチンでは人気脚本家であるらしい。確かに、シナリオが実にうまく出来ている。主人公及び物語に関する情報の差し出し方に、高度なテクニックを感じる。例えば、彼は最初の到着地であるマドリードの空港で、出入国管理官(?)に取り調べを受けるのだが、そのやり取りの中で、ここまで語られなかったあれこれ、即ち、ポーランドに行くのは1945年以来であること、目的は友人に服を届けること等々が簡潔に語られ、その口調、表情に、苦渋に満ちた人生の一端が垣間見えたりもするのだ。ライターとして上級であるだけではない。この取調官と主人公のやりとりを、顔を接近させることで緊迫感を、つまり、主人公の目的がここで頓挫してしまうかもしれない危うさを感じさせつつ、少し離れた位置からそれを見ている若い取調官の、含み笑いを浮かべる<緩い>カットを挿入する、その緩急を交えた進行が絶妙で、このシーンだけでも、監督としての力量もまた上級であることが分かるのだが、そう、映画全体が緩急のリズムを奏でているのだ。

パーティ会場(?)で、軽やかに流れる音楽をバックに、大勢の人々が楽しそうに満面の笑みを浮かべて踊る、華やかな賑やかなシーンから始まって、次には、主人公が、間もなく売ることになるらしい自宅で、大勢の子どもたち孫たちに囲まれて写真を撮るシーンがあり、彼らが出て行ったあと、おそらく彼の世話をしていたであろう女性が一着の服を示し「これはどうしますか?」と訊ねられ、それが、老人ホームに行くはずの彼に<長い旅>の決行を促し、あれこれあって、最後は冒頭とは真逆の静かな静かなシーンで終わるのである。(以下は次回に)

 

 

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