竹内銃一郎のキノG語録

転居の記録①2020.02.17

NHKBSの「新日本風土記 池袋」を見て驚く。池袋には20年近く住んでいたのだが、それがすっかり変わってしまっていたのだ。池袋から京都に引っ越したのは6年前である、え、こんなに変わるか、たった6年で?!

改めて断るまでもなく、ブログは見知らぬ他人様にも読まれることを前提としている。言うならば「公開日記」であるから、読み手の方々へのサービスもそれなりにであるが、心がけているつもりだ。しかし、今回書こうとしている事柄は、わたしの「転居の記録」である。おそらくこんなことに関心を持つ人など稀有であろうが、それを承知で書こうと思ったのは、いまのうちに書いておかないと忘れてしまいそうだからである。冒頭の「池袋」に接してそのことがよおく分かった。今回は「公開日記」ではなく、「忘備録(備忘録)」である。

1947年10月11日、愛知県半田市乙川北側町にて生まれ、66年3月に高校を卒業するまでここにて過ごす。同年3月より、埼玉県与野市(現在はさいたま市)のアパートで、高校の友人(竹内信広)と同居。ここに住むことになったのは、結婚した姉にすすめられたからだ。姉の家族は同じアパートの一階で、わたし達は二階。一年後くらいか、姉のご主人の小林さんが、仕事の関係で韓国へ長期出張することになり、わたしは、姉たちの住まいに引っ越し、同居していた信広とお別れ。それから多分、半年後に小林さんが帰って来たので、西武池袋線の江古田駅から徒歩3分(日大芸術学科校舎まで徒歩10分)ほどのところにあった、家内工業を営む家の二階の<貸間>に引っ越し。なにを作っていたのかすっかり忘れてしまったが、朝早くからゴトゴトと機械の音が聞こえ、夜は10時門限と決まっていてまったく安住できず、一年と経たないうちに、同じ西武線の大泉学園駅から徒歩12、3分のところにあった家の二階に引っ越し。こちらは江古田と違って部屋に台所があり、毎日買い物に出かけては料理を作って食べていた、そのためほとんど大学には行かず。大学4年になった時、たとえ真面目に大学に通っても、あと2年では卒業に必要な単位取得はできないことが分かって大学中退を決め、親には以後仕送り不要と宣言。ということが、母から姉に伝えられたのかどうか、新築した二階が一部屋空いてるからうちに来てもらっても …と言われ、69年から小林家での居候生活が始まる。飯代として毎月1万円払っていたが、メシだけじゃない、掃除も洗濯もみんな姉にやってもらっていたのだから、姉及び旦那の小林さんにはどれだけ感謝をしてもし足りない。この家から出ることになったのは、ふたりいる姪の姉ちゃん・睦子が中学に上がる年齢になり、わたしが使わせてもらっていた部屋は、彼女と妹の薫の勉強部屋にすべしと思ったからだ。時はおそらく1976~7年で、てことは、7~8年もの長きにわたって小林家の厄介になっていたわけである。嗚呼!(続く)

 

 

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