竹内銃一郎のキノG語録

活動の記憶① 1966~19732020.02.18

前回に続いて備忘録を書こう。今回は転居の記録ではなく、上京してから数年間の「活動の記憶」をとりあえず。

66年、早稲田大学入学。ここを選んだのは、映画監督・シナリオライターにワセダ出身者が多かったからだ。その多くが属していたサークル、映画研究会あるいは稲門シナリオ研究会にわたしも入りたいと思い、二度三度と両者の部室のドアの前まで行ったのだが、どうしてもドアを開けることが出来ず。知らないひとたちの輪の中に入る勇気がなかったのだ。翌年、シナリオ作家協会の「シナリオ研究所」に入る。2時間ほどの講義が週に2回くらいだったか。ほぼ欠かさず受講していたが、その中身は退屈の一言。シナリオを書いたら、希望する作家・監督に読んでもらって感想も聞けるというので、その中身は記憶にないが作品提出。しかし、指名した浦山桐郎からなんの音沙汰もなく。自分には作家の資質なんてないんだと思い、大学に戻って真面目に講義に出席し …と「別の人生の選択」をしたのだが、何回か前にも書いたように、一年留年しても卒業できないことが判明、それで69年の春、前述のシナ研の上級クラスの「ゼミ」に入る。ここで大和屋ゼミのほか、秋浜悟史ゼミ、佐々木守(途中で須川栄三氏に代わる)ゼミを取り、翌年、同じゼミ生数人と同人誌「純子の友」を創刊、と言っても第一号のみだが。大和屋さんからの依頼でピンク映画のシナリオを書いたのは、多分、この翌年の71年で、この時わたし弱冠23歳。

「純子の友」の同人ではなかったけれど、いちばん親しかった蓮見とふたりで、48時間寝ずに書き上げる。なにを書いたのだろう? もしかすると、ゲイの殺し屋が出てくるヤツかも? 大和屋さんには面白いと褒められたが、制作サイドから認められず。しかしこれ以後、年に二本ほどの依頼が大和屋さんからあって、5、6本書いたはず。鮮明に覚えているのは、長野の松本を舞台にしたモノをと言われた書いた「松本夫人」。老年の大学教授が学会かなにかで東京に出かけ、残された若妻のところへ若い男が訪ねてきて、「自分はこの家の息子だ」と言い、「主人からの子どもの話を聞いたことはない」と若妻が答えると、「嘘じゃない」と若者はあれこれ、息子である証拠を見せてその挙句 …、というもの。残念ながらこれも含めて全作品映画化叶わず。でも、一本につき7万円ほどの執筆料はいただいていて、当時は月に3万ほどあればという生活だったから、一年の半分くらいしかバイトをしなくても、なんとか食えていたのだ。ありがたや。

大和屋ゼミのわたしより2年後輩の鈴木くんと会ったのは72~3年だったか。自主映画を作りたいという彼に大和屋さんが、凄い書き手がいるぞととわたしを紹介してくれたのだ。わたしがホンを書き、出演もした彼の作品は「黄色い季節風」。出演した数人の女性すべてが全裸になるという凄い映画。シナリオのどこにもそんなこと書いてないのに。おまけに、わたしも全裸になってソ連からの留学生女子と組んずほぐれずのベッドシーンを(ウフッ)。この翌年に、鈴木くんから次の新作をまた、という話があって、多分、わたしの企画だと思うが、桜を追って日本中を旅するロードムービーを作ることになる。確か2月の終わり、メンバー8人で東京からまずは鈴木くんの実家がある沼津へ行き、そこからわたしの実家、大阪、高知、宇和島から大分に渡り、宮崎、鹿児島と移動。そこまでの各地で、メンバー各々をその地の主役にした、長さ10分ほどのシナリオをわたしが書き、それをベースに撮影を続けていたのだが、福岡のぼた山で、鈴木くんがこれ以上は無理だと撮影中止を言い出す。前述したように、鈴木くんはシナリオ通りに撮らないので、撮影前日までシナリオを渡さないというわたしの<手法>に我慢出来なくなったのだった。この時に鈴木を含めて3人が抜け、残り5人のメンバーで、日本海に沿って北へ北へと移動。青森で、それまでずっと車を運転していた元・天井桟敷の元(ウォン)くんが、「疲れた」と言って抜け、ここからは4人で電車を乗り継ぎ最終地点の北海道・稚内まで。メンバーのひとりでシナ研ゼミ同期の大木が、普段は冷静沈着な男だったのに、「日本列島最北端」の碑が立つ宗谷岬の浜辺で、やおら着ていた服を脱ぎ捨て、パンツ一丁で「ウォー!」と叫びながら海の中へ突入! 約一ヶ月に及ぶ長旅の間、追いかけた<咲きほこる桜>など一度も見られず、最後はメンバー半分になってしまった、憤り・やるせなさが彼をしてこんな行動をとらせたのだろう、多分。

 

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