竹内銃一郎のキノG語録

転居の記録② 浦和ー板橋ー池袋そして …2020.02.27

またまた大事なことを書き忘れ。前回の「転居の記録」で、「高校卒業まで実家で過ごし …」と書いたが、4歳の多分秋から翌年の2月までの半年ほどを、父の妹、つまりわたしの叔母の嫁ぎ先で過ごしているのだ。なにゆえにそうなったのかは、もう両親もまあちゃん(叔母)も亡くなってしまったから、よく分らない。想像するに、百姓仕事が忙しかった母に代わって、わたしの面倒を見ていたまあちゃん(未婚で同居)にわたしはなついていて(これは事実)、まあちゃんがいなくなったことで絶えず愚図ったり癇癪を起していたわたしを、気性の激しかった祖母が、ウザイわたしをしばらく預かるよう、まあちゃん(と、その家族)に命令したのではないか。まあちゃんの嫁ぎ先は、同じ市内の岩滑(童話作家・新美南吉の故郷)で、わたしが行ったのは秋だと思うのは、まあちゃん一家の稲刈りの光景が記憶にあるからで、家に戻ったのが2月だと思うのは、迎えに来た父が「明日、祭礼があるから一度帰ってこい」と言ってわたしを自転車に乗せたのを覚えているからだ。乙川の祭礼、いまは3月だが昔は2月だったのだ。川沿いの道を移動中、わたしはハタと「このままもう岩滑には帰れないのでは?」と気づき、前の席で自転車をこぐ父の背中をバシバシと両拳で叩きながら、「やだ、やだ、戻れ、戻れ」と泣き叫んだことを、今でもハッキリ覚えている。父は、4月にわたしを幼稚園に入れるにはそろそろ …と思い、だから引き取りに来たのだ、多分。この年の3月に弟が生まれ、その翌年に、まあちゃんの実家であるわが家の、弟が生まれた同じ部屋で、長男のトシノブくんが生まれる。弟が生まれた瞬間に立ちえず(多分、寝ていたのだろう)歯ぎしりしたわたしは、トシノブくんが生まれてオギャーと泣いたその声を聞いてすぐに、その部屋に飛び込んでいる。これも懐かしい思い出だ。

さて、ここからは前回の続きを。大宮市北袋町(現在はさいたま市大宮区)にあった小林家からの引越し先は、小林家の最寄り駅・与野から二駅東京寄りにある浦和を最寄り駅とする、浦和市高砂(現在はさいたま市浦和区)にあったアパート(銀嶺荘)で、確か学生時代に住んでいた大泉学園の貸間と同じ1DK。すぐ近くに埼玉県庁や県立図書館があって、駅まで徒歩10分。うん? 前回の「バイトの記憶」で最後に触れた川口のキャバレーへはここから通っていたはずだから、やっぱり朝・昼・晩とバイトをしていたことがあるのかも。78年の秋頃からいまの奥さんと同居を始めたが、部屋が狭いということで、おそらく年が明けてからだろう、赤羽駅近くのアパート(美山荘)に引っ越す。目と鼻の先にラブホあり。以前は引っ越すたびに持っていた本の半分くらいは古本屋に打っていたが、この頃からそれをやめる。81年、父から「生前の遺産分け」として、マンション購入の申し出があり、浦和駅から徒歩8分、中山道沿いのところに建築中だった「ロイヤルプラザ常盤」に引っ越す。

それから数年後、あれこれ問題が生じてわたしは家を出、東武東上線・下板橋駅から徒歩10分ほどの1DKに移り住む。88年の「ひまわり」公演を最後に秘法零番館を解散したのをきっかけに、翌年、都営地下鉄・板橋区役所駅から徒歩5分ほどのところにあったアパート(2DK)に引っ越し。ここには7~8年住んでいたが、建て直すということで、今度は東上線の北池袋駅から徒歩8分のマンションに引っ越し、ここは3LDKでバス・トイレ付だったから、それまでの2倍以上の家賃。いうなれば無理を承知の選択をしたのだが、これがうまく嵌って、40代半ばでようやく同年代のサラリーマン並みの年収に。やっぱり<勝負>はしてみるもんです。

2000年より近畿大学の教員となり、当初は週三日で5つの講義を担当し、週末は東京で過ごしていたが、1年目の後期から発表会を終着点とする演技実習を担当するようになり、週2コマの講義だけでは「芝居にならない」ので、5限目終了後の6時半から9時半過ぎまで稽古。当然、東京へは帰れないので、近鉄・河内小阪駅近くのアパート(1DK)を借りる。大学へは通常、徒歩20~25分で通い、暑くなると自転車を使った。学生たちとのDRY BONESを旗揚げした2008年以降は、東京よりも大学のある東大阪にいる方が、断然多くなる。

2014年、3月の大学退任を控えた1月末、河内小阪と北池袋の住まいをともに解約して京都の伏見桃山へ。ここを引越し先に選んだのは、淀の競馬場まで散歩がてらに行けるのではと思ったからだったが、それは大外れ。しかし、徒歩5~15分ほどで行ける最寄り駅が、近鉄の桃山御陵前、丹波橋、京阪の伏見桃山、中書島、丹波橋と多々あり、さらには、わたしが大好きなアーケード付の「大手筋商店街」がすぐ近くにあって、これまでも何度か書いているが、70年生きてきて、ここはわたしのいちばん好きな街となっている。

そして2017年2月、伏見桃山の3LDKマンションを出たわたしと、浦和のマンションを売り払った奥さんとが、渉成園前に建つマンションで30数年ぶりに共同生活を始めることに。う~ん。はたして、これから何年続くのでしょう、いまのこの生活が。おしまい。

 

 

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