竹内銃一郎のキノG語録

活動の記憶㉘  秘法は濁りて美貌と化す …  秘法解散の前夜2020.11.25

体力的な衰えを感じることはあまりないのだが、記憶力減退の激しさに震える今日この頃。一週間ほど前から、来月3日から始まる稽古に備えて、「さいごのきゅうか」の台本を再点検していたのだが、2,3日前、登場人物のひとり、神明寺の名前が「要人」と書いて「かなめ」と読むことに、これは「要」だけでいいのでは? と殿井さんにメールをしたら、「それは竹内さんがお考えになったことでは?」と返事がきて。ショック! 更に、「活動の記憶」の続きを書くために古いチラシを見ていたら、その中から「竹内銃一郎作品リスト」なるものが出てきて、それを見ると、83年に「呼子と口笛」、86年に「汽車の中の悲しい青年」を秘法で上演とある。後者は別所さんが台本を書いた「若手公演」だが、前者の啄木の詩集のタイトルを借用している「呼子と口笛」は、その中身をまったく覚えていないのだ。うーん。というまたもや悲しい前置きから始まる今回です。

88年に発表したのは、これも別所さんが台本を書いてわたしが演出した若手公演「ジャルディーノ 月の出を待ちながら」(7月 於:大塚ジェルスホール)と、「ひまわり」(10月 於:ザ・スズナリ)の2本。「ひまわり」は結果的にはこれが秘法最後の解散公演になるのだが、この年の始めからそんなことを考えていたわけではない。当初は、なにをきっかけにこんなことを考えたのかすっかり忘れてしまったが、忍者ものをやりたいと思い、劇団員たちに忍者関係の本や映画を見るよう伝えていた。さらには、その調査をもとに、毎月「忍者通信」なる瓦版的なるものを作って、主な劇場で配布するように指示もしていた。おそらく劇団員の中ではいちばん若かった長野力(本名隆之)が編集長になって作ったそれは、毎度絵入りで結構な面白さだったが、ある日(いつ頃だったろう?)、「忍者もの」はやめて「ひまわり」にすることになった。なにがそうさせたのかはこれまたまったく記憶にない。高卒で北海道から秘法にやってきた長野は、劇団解散後大学に入学し、そこまでは知っていたのだが、数年前に彼が亡くなったことをネットで知って驚き、さらに驚いたのは、大学の准教授になっていたことだった。合掌。(そうだ。今日、秘法以降、わたしが演出した芝居の大半の照明を担当した吉倉さんから、秘法の俳優で、彼の嫁さんになった古川さんが亡くなったことを知らせるハガキが届いた。ああ⤵ …)

何故、「ひまわり」を最後に解散することになったのだろう? 前述の「忍者通信」に代わって出した(?)「秘法新聞」は、4頁のうちの3頁は、2年ぶりに秘法の舞台に立つ木場、森川、わたしの3人の座談会で占められている。今回、久し年ぶりに目を通したのだが、木場、森川はともかく、わたしはこの時点ですでに、頭のどこかに「解散」の2文字が浮かんでいたように感じる。劇団の核になっていた森永が、この時点では劇団員連名の中に入っているが、家庭の事情で田舎に帰ってしまい、木場もマスコミ等の外部からオファーがあればそれに応える風であったし、森川は、わたしがこの頃知り合い親しくなった柄本さんや岩松さんの面白さを話すと、はっきり苛立ちをというか、自分はそうは思わないという態度を表明していて。これらも解散を決断させた理由であろう。つまり、劇団の核が消えつつあったのだ。それともうひとつ。これはいつ頃からであったか、現在の<苦しき30代>を切り抜ければ、あとは惰性でなんとかなるのでは? と思っていて、88年のこの年、わたしはもう40代に入っていたから、そろそろ別の道を選びたいと思っていたのかもしれない。

以下は、前述の「秘法新聞」に書かれている、かなり上出来の「秘法」の定義(?)である。

秘法は秘宝にして、劇界の珍宝也。秘法は非法にして、逸脱の阿呆也。秘法は飛報にして、時代の先鋒也。秘法は濁りて美貌と化する、不思議の酵母也。

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