スズナリで三浦大輔の「おしまいのとき」を見る。2011.09.11
久しぶりに下北沢へ。この前行ったのはいつだったのか。多分、岩松さんの芝居を見に行ったときだった、と。
この間来た時は、まるで戦後間もなくの闇市みたいでショックを受けたが、今回さほどでもなかったのは、幾分明るくなったのと、こっちも暗いのに慣れたのと両方があるのだろう。
スズナリで三浦大輔の「おしまいのとき」を見る。
ショックというほどでもないが、久しぶりにひとの芝居に刺激を受け興奮する。
このお芝居、「演劇」なるものとはいささかズレているように思われるが、演劇的とかそうじゃないとか、そういうことはどうでもいいと思わせた。(なにをもって「演劇的」とするかという議論は面倒なので、ここでは飛ばす)
まだ始まったばかりなので、物語の詳細については触れない。
登場人物の動きと物言いの緩慢さ、台詞の少なさ、照明の暗さ。この三つがこの芝居の大きな特徴。
いまわたし(たち)が稽古している「心臓破り」の音楽を、アキ・カリウスマキの映画みたいにしたいと思っているのだが、そう、上記にあげた三つはアキ・カリウスマキの映画の特徴でもあるのだ。
そうか、三浦大輔はスケベなアキ・カリウスマキだったのか。
演出が極めて知的だ。物語は最後にきて二転三転するのだが、人物たちの関係の微妙さが、立ち位置の距離によって常に的確に明示されている。
日本の芝居でこれほど意識的に厳密に作られた(演出された)芝居は、鈴木忠志と岩松さんの芝居以外にあまり見たことがない。
上演時間が2時間15分だと聞いたときは、少々ゲンナリしたが、その長さを感じさせない。寝不足だったが眠りもしなかった。いや、あまりに緩慢に進むし、照明は暗いし、声も小さいしで、一瞬睡魔に襲われたが、エッチな場面になったのですぐ(10秒くらい?)目が覚めた。これも演出家の手練手管か?!
ラストシーンで今村昌平の映画「赤い殺意」を思い出した。
「赤い殺意」のヒロインを演じた春川ますみのボリューム感たっぷりの肉体と、この芝居のヒロインを演じた女優さんのなんとも頼りなげな佇まいの徹底的な差異が、あの時代とこの時代の差異を明らかにしている。
恐ろしい芝居だ。ほんとに殴ったり蹴ったりするのも恐ろしいが、客を甘やかしたり、客に媚びたりするところが皆無なのは、もっと恐ろしい。