「小さい秋」を手渡す 由紀さおりブームの検証2012.02.22
わたしには変にマジメなところがあり、このブログも別に誰に要請を受けてるわけでもないのに、二週間も更新しないと、ダメじゃないかなどと自らを叱咤してしまう。
それで書けば書いたで、<問題>が浮き彫りになって、その続きを書かねばという義務感にさいなまれたり。
で、昨日に続いて今日も書くわけですが。
昨日のNHKTVの「クローズアップ現代」で、由紀さおりブームが検証されていた。といっても、この手の番組で何事かがまともに検証されたことなど一度もないのだが。番組のコンセプトは、「日本語の美しさの(再)発見」といったもののようで。例の如く、いろんな角度から考えてみようというわけで、音声学者、日本語学者、アメリカのアーチスト、コンサートの観客等々からお言葉を頂戴していたのだが、語るひとが多いということは、それぞれが浅いということにならざるをえない。
やっぱりな、これで「まあまあこんなところで手を打ちましょうや」みたいな感じで終わるのだろうなと思っていたら、最後の最後に思わぬ「事故」が生じてしまった。
番組の流れは先にも記したように、「日本語の美しさ、みんな忘れてません? 日本人であることをもっと誇りに思いましょうよ」的なメッセージを終始送り続けていたのだが、最後にスタジオに来てMCの国吉さんと話した、多分アメリカ人の若い詩人が、日本語がどうこうということではなく、由紀さおりの歌声に多くの欧米人が魅了されたのは、彼女の表現力が素晴らしいからだと、いうなれば当たり前のことを言ったのだ。MCは執拗に、でも日本語はどうたらこうたらとなんとか用意した結論に持っていこうとするのだが、若い米詩人は、ソフティだけどしぶとくて、安易にその罠にひっかからない。
「言葉が分かるとか分からないとか、英語だからだとか、日本語だから、フランス語だからとか、そういうことではなくて、由紀さおりは、言葉・日本語のむこうにあるもの、例えば、小さい秋なら小さい秋=風景を聴き手に直接手渡したいと思い、それを可能にするにはどうしたらいいかを考え、それが結果として、国境=言葉の壁を超える成功を生んだのではないか。」と。
昨日ここで書いたことにつなげれば、たとえば、「日本語は美しい」という結論=テーマありきを大前提として、そこから逆算して番組の全体を構想・構成するという作り方が、わたしに言わせれば文学的、いや、<文学的>なのだ。
昨日書いたことを誤解なきよう、より正確を期して書けば、文学の単なる立体化は演劇とは呼べず、それは<文学>でしかないのだ、と。
なぜ世に演劇ならざるものがはびこるのかと言えば、<文学>ですらないものが大半だからで、だから多くのひとは、それらよりは幾分格上の<文学>を、演劇と取り違えてしまうのだ。
先日、東京で見た関西発の公演は、<文学>にすら届かない、愚か者たちの手になるという意味で、文字通りの愚作だったが、これに限らず、そもそも舞台に映像を持ち込むという発想自体、わたしには演劇を回避して<文学>へと傾斜する、いうなれば、文学コンプレックス者であることの証にほかならないと思うのだ。