立ち話 亀井亨の「ミルク 滴る女」を見る。2012.02.21
15日から始まった「いちご大福姫」の稽古場で、馬鹿のひとつ覚えのように繰り返している言葉がある。
「演劇は文学じゃないからね」
おそらく90%以上の観客(批評家等も含む)及び作り手たちは、演劇は文学の立体化だと思っているのではないか。もしそうだとしたら、先日久しぶりにお会いして10分ほどの立ち話をしたSさんが話されたように、「稽古なんて2週間やれば十分」なはずだ。いや、手だれの俳優を集め、彼らに手持ちの芸を駆使させれば、1週間もあれば十分だろう。現に、ちょっと事情は異なるが、吉本新喜劇や大衆演劇は、1日2日の稽古しかしてないはずだ。
「演劇は文学じゃない」などと言うと、じゃ、ナンセンスな台詞や禍々しい台詞、あるいは政治的に過激な台詞を散りばめ、俳優は舞台で飛び跳ね、血なんか飛び交えばいいわけね、なんて思うひとがいる。こんな言い方はあんまりだと承知しつつ書いてしまえば、いわゆるアングラ・小劇場と総称された演劇の大半は、そういうものではなかったか。
前述のSさんも、これまた甚だ失礼な言い方になるが、その程度の認識で近代劇=新劇=文学を超えられると思っておられたのではないか。
今回の芝居のテーマは、「立ち話」になるのかもしれない。
昨日の稽古中にこんなことを話した。
立ち話がテーマだと? なにそれ? と思われた方は実際にその目で見ていただかないと理解はされないかもしれませんが。いや、そもそも演劇は文学の立体化だと信じて疑わないひとは、それがどうしたと思うしかないでしょうが。
先週末、久しぶりに東京に帰って、留守中に録画しておいた亀井亨の「ミルク 滴る女」を見る。
亀井は、以前ここでも紹介したが、この10年の間に公開された日本映画の中でわたしが最優秀作品と断じている「テレビばかり見てると馬鹿になる」を撮った監督。
「ミルク」も秀作だった。
自らの巨乳にコンプレックスを抱く女が主人公。彼女は、父とふたりで乳牛を飼育し、牛乳の製造販売をしている。こう書くと、ベタな設定だなあと思われるかもしれないが、これでいいのだ。企画書にはこんな主人公の設定に他の登場人物を面白おかしく付記し、更に、日本の農業問題、地方の過疎化問題を鋭く抉るなどと書けば企画は通るのだ。現に通ったし。
移動撮影と引き絵で撮られた田園風景がとりわけ美しく、また、これまでの作品でも顕著だったが、ヒロインが実物以上に(?)にきれいに魅力的に撮られてる。たまたま、昨日の深夜のテレビのバレイティに、ヒロインを演じた初音みのりが出ていて、映画とのあまりの違いにビックリ!!
この映画の美点を挙げればキリがないが、そのうちのひとつを挙げれば。映画のほとんどラスト。ヒロインに絶倫ではないかと思われている老人と牛乳配達途中のヒロインが立ち話をするシーンがあって。ふたりの背後を時々車が通り過ぎるのだが、そのタイミングが絶妙なこと! 演出ではなく、多分偶然だと思うけれど、アンゲロプロスの「霧の中の風景」の中で、鶏が登場するシーンがあり、その鶏が凄い芝居をすることは知るひとぞ知るところだが、あれと同じで、偶然を引き込む力が亀井にもあるということなのだ。
そうか。書いていていま気づいたが、「立ち話」というアイデアはこの映画から来てたのか?