不肖の息子が… A級M版「悲惨な戦争」を見る2012.03.06
先週の土曜日。久しぶりに阪神競馬場へ出かける。愛馬ジョワドヴィーブルがチューリップ賞に出走するのと、6時から伊丹のアイホールで、A級ミッシングリンクの「悲惨な戦争」を見る予定になっていて、そのついでもあり。
パドックのジョワちゃん。こんなに大人しかったかなと思えるほど落ち着いている。いや、これは元気がないと見るべきではないかと思っていたら、やっぱり、3着。最後の位置取りが馬群に入ってしまっていかにも悪く、福永の馬鹿たれが!と思ったが、これからのGⅠ戦線本番に向けてのテストだったのかもしれない。しかし、父親がオレハマッテルゼなんて地味な血統の上に、前走より10キロ以上馬体重を減らしてきた馬が勝つなんて!これだから競馬は難しい。でも、本日は久しぶりにプラス計上。よかったよかった。
最終レースまでやって、急いでアイホールへ。
「悲惨な戦争」は、わたしが30年以上も前に書いた作品。それを上演してくれるというだけでもありがたいのに、これが予想を超える出来映え。とても満足。もちろん、競馬大勝利の余韻のせいではない。
演出の土橋くんと出演した細見くんは、わたしが近大に赴任した最初の年に、多分、演技・演出論という講義を、他学部生なのに受講していた真面目なひとたち。とりわけ土橋くんは、わたしの講義の受講生がこれまで何人いたのか知らないが(数百人?)、その中では飛びぬけて優秀な学生だった。
彼らの芝居も3本ほど見たことがある。この国の、とりわけ関西では珍しい、知性を感じさせる芝居で、基本的に好感を持っていたが、なんといったらいいのか、世界もひとも、もう少し無様なはずなのに …という不満もあった。
が、今回の芝居は …
見ていない芝居のことをアレコレ言うのはいかがなものかだが、「現代演劇レトロスペクティヴ」として上演された他の2本は、見たひとの話を聞けば、解体だのズラシだの、実際そういう言葉を演出家が使ったかどうかは知らないが、原テキストをアレコレいじくって上演したようだ。
アフタートークで、わたしのこのブログを読んでいるという若いひとから、「単なる<文学>の立体化じゃないお芝居って、具体的にはどういうお芝居ですか?」というもっともな質問をされて、そうじゃないものならいくつも挙げられるけれどと、お茶を濁してしまったけれど(申し訳ないです)、そう、例えば、前述のように、言語の解体などという言葉を使えば、新しい演劇が作れると思うその勘違いは、明らかに文学的発想(終わってる? 止まってる!)からくるもので、いや、それは<文学的>ですらなく、二言目にはコンセプトと言いたがる広告代理店的発想がもたらすものだ。
今日を生きる俳優(の身体)を軸に芝居を作れば、どの国のどの時代に書かれた戯曲をテキストに使おうと、<現代演劇>として成立させることが出来るはずだ。解体だのズラシだのと一見もっともらしいことをほざく連中は、結局のところ、俳優(の身体)、及び、戯曲・テキストと正対する勇気と誠実さを欠いた、言語をいたずらにもて遊ぶヘナチョコなのだ。
「悲惨な戦争」を見ていて、いろんなことを思い出した。アフタートークでも話したのだが、前年、「檸檬」という作品で、わたしは一躍注目を浴びてしまい、関係者からは岸田戯曲賞の大本命などと言われ、また、書く前から雑誌掲載も決まっていて等々のプレッシャーの中で書いたこと。あるいは、演出の和田はその年いっぱいで、家業をつぐため実家の松江に帰ることが決まっており、また、劇団設立の言いだしっぺだった俳優のジョージも映画の方に専念したいと言い出したため、年内の劇団解散が決定した中での公演だったこと、等々。
あれやこれやでなかなか書けず、いわば七転八倒しながら書いたこの戯曲、上演したい旨を連絡してきた土橋くんにも言ったのだが、いわば出来の悪い、わたしにとっては不肖の息子なのだ。
それがまあ、今回は立派になって帰ってきたなあ、という感じで。
明らかに瑕疵の多い戯曲で、それは当時も承知していたのだが、しかし、なにをどうすればいいのかその方法が分からなかったのだ。
今ならはっきり分かる。単純な話だ。いい台詞(決め台詞)を書こうとしすぎてるから、それをやめること。ひとつの台詞に、次の台詞でいつもいつも誠実に答える必要はないこと。いちいちリアクションめいた台詞を書こうとするから、バカみたいな駄洒落をはさまなければいけなくなるのだ。
劇の前半は、わたしの戯曲の常だが、物語がなかなか動かず、動かないので下らない台詞や行為で埋めようとして、それが往々にして墓穴を掘らせる結果になるのだが、そこのところを土橋演出は実に冷静に対処していて、そのコントロールのよさに、土橋くん個人の才能もさることながら、誤解を恐れずに書けば、この国の現代演劇の成熟を感じた。必要以上に奇を衒わないのが結構だと思ったのだ。
以前にも同じようなことを書いたような気もするが。わたしの戯曲を他のひとが演出したのを見て、ほとんど面白いと思ったことがない。それは、わたしのイメージしたものとほど遠いからではなく、ただ単に言葉の上っ面を撫でてるだけのようにしか思えないからだ。
授業でも繰り返し言っているのだが、親が必ずしも子供の最大の理解者ではないように、作者が自らの作品の最大の理解者だとは限らない。だから、わたしの知らない、「子供の別の顔」を見せてもらいたいと、ただそれだけのことなのだ。
そういう意味では、今回のA級のお芝居はまさにそういったもので、、貸し借りが嫌いなわたしとしては、いつかこのお礼はしなければ、とそう思った次第であります。