MODE公演「満ちる」パンフ原稿2012.03.15
タイトルのこと
竹内銃一郎
松本さんから戯曲の依頼があったのは、多分1年半ほど前のことで、それからさほどの間をおかず物語を構想し、タイトルを決めた。
「満ちる」とはこの物語の主人公の名前でもある。
こんなことは言語学レベルでは常識なのかもしれないが。ひとつの言葉・文章には、それが意味するところのものだけではなく、希望や願望、往々にして反対の意味合いさえ含まれているのではないか。例えば、「わたしはまだ若い」と語るのは、「もう若くないのではないか」という恐れや不安が前提になっているはずだし、「きみは美しい」という言葉には、「確かにいまここでは美しいけど ……」という留保や、「本当はわたしの方がきれいなんだけど」、「ひとは外見だけじゃないからね」等々の皮肉が暗に込められているはずだ。
という言わずもがなのわたしの見解に従えば、このタイトルには、「満ちる」と命名された女性が「満たされざる者」であること、更にはそれがゆえに、「満たされたいと強く願う者」であることが暗に示されているだろう。
と同時に、これには潮の満ち干の意も込められていて、劇は常に希望を語らなければならないと頑なに考えるわたしは、直裁にいえば、不幸な彼女が「母なる海に包まれて幸福に満たされる」、という感動的な(!)ラストシーンを用意していたのだった。それが ……
当初は去年の連休明けには書き上げるつもりだったのだが、3・11の荒れ狂う海(の映像)を目の当たりにして、そんな目論見は消し飛んでしまった。
書けない日々が続き、すべてを破棄してまったく別のものを書いてもみたが。
呻吟のはてに(そんなオーバーなものでもないのだが)、ふと「青い鳥」を思い出す。ミチルが兄のチルチルと青い鳥を求めて旅に出るのは、むろん、このいたいけな兄妹が寂しさ=不幸を抱えているからだ。そうかとわたしは左膝を打つ(実際にはしていない)。わたし(たち)の満ちるもまた、旅の途中で思わぬ苦難に遭遇し、けれどもそれを乗り越えるべく闘っている、これはそういう物語なのではないか。そう考えたわたしは、今度は前よりもいっそう力を込めて、今度は右膝を打ったのだった(実際にはしていない)。