まるでバルサのサッカーのような「彼女は浜辺に消えた」2012.03.14
先週末に見た映画のことを書こう。
A級Mの土橋くんが、「悲惨な戦争」のチラシに、自分は先人の知見に倣うという意味のことを書いていたが、わたしも同じだ。先人とは自分より古いひとという意味ではなく、文字通り、自分より先を行ってるひとを指す。この歳になっても、当たり前の話だが、まだまだ学ぶことは多い。ありがたい話だと思う。そうです。竹内は意外に謙虚なヤツなのである。
土日で6本。映画の中心をアメリカ・ハリウッドとするならば、これらはいずれも辺境の地で製作されたものだが、むろん「映画の王道」がこちらにあるのは断るまでもない。
「彼女は浜辺に消えた」はイランの映画で、ベルリンで(間違ってるかも知れない)複数受賞した作品のようだから、知っておられるひともいるだろう。
イラン映画というと、わたしなどすぐにキアロスタミやマフバルバフ親子の、素人を使った即興演出を思い出すのだが、この映画も、実際はどのように作られたのかは知らないが、即興風の演出で、まるでバルサのサッカーを思わせる、その自在性とスピード感が素晴らしい。
物語はいたってシンプル。テヘランに住んでいるらしい複数の家族が一緒に、2泊三日の予定で海に出かける。が、予約していた別荘が、持ち主が帰って来るということで泊まれなくなり、その代替として、海のすぐ前に建つ、長く使われていないらしい古い家を借りることになる。
この時点で誰もが、ああ、こりゃヤバイと思うのではないか。だって、タイトルが「彼女は浜辺に消えた」というのだから。
タイトルにある<彼女>とは、親しい家族たちの一員ではなく、その中の奥さんの子供が通う保育園の保母さんで、一日だけという約束で彼らと一緒に来た、いわば<部外者>である。言い添えれば、この女優さん、メチャメチャ美人です。
予想通り、彼女は物語の半ばで忽然と姿を消し、後半は残された<家族たち>による彼女の捜索、そして互いの間に生まれる疑心暗鬼が語られる。
まことにうまく出来ている。アホな映画は、こういう設定を考えると、多分、消えた彼女の隠された秘密を探るというような筋立てにするはずだが、そんな個人の内面の中に入り込まない。実にスマート。
そういえば、ことあるごとに駄目な映画の代表としてあげる「ゆれる」がそんな映画だった。事件の真相を探っていくと、<彼>の秘められたコンプレックスが明らかにされる、みたいな。なんというビンボー臭さ!
<彼女>が最後にその姿を見せる凧揚げのシーンが素晴らしい。凧を揚げていた(=空を見上げていた)女が海に消えるという発想がなんともカッコいいではないか。
しかし、わたしがもっとも感心し、唸り、倣わねばと思ったのは、複数の家族たちがいったいどういう知り合いなのかがほとんど説明されないまま物語は最後まで進行し、にもかかわらずそのことがほとんど気にならないという点だ。多くの作り手は、この手の説明に時間を費やし、ために、後半が大急ぎになって、最後に砂を噛むようなメッセージ・結論で締めくくらねばならない羽目に陥っている。
わたしも例外ではない。ホークスの映画から、人間関係の明示はシンプルに手早くということを学んだが、この映画からはそんな説明なんかなくても物語を成立させることが出来ることを学んだのだ。もちろん、説明不要を可能にさせたのは、この映画が、必要な説明を忘れさせてしまうほどの、非日常的・魔術的ともいうべきスピード感を備えていたからだ。
「バビロンの陽光」は、タイトルからも明らかなように。イラク映画である。
こちらもシンプルなお話。12歳(多分)の少年が年老いた祖母と一緒に、まだ見ぬ父に会うべく旅に出る。父は1000キロ離れた場所にある収容所にいるらしい。車やバスを乗り継いでようやく目的地にたどり着くのだが、そこには父はいない。別の収容所にも行ってみるのだが、そこにもいない。もう亡くなっていて、集団墓地に埋葬されているのではないかと、あちこち行ってみるのだが、なかなか見つからない。とうとう祖母は精神に変調をきたし、ついには亡くなってしまう。
映画の冒頭、「フセイン政権崩壊後、3週目」であることがクレジットで示される。旅の途中、あちこちで黒煙が立ち昇り、アメリカ兵もいっぱい登場する。もちろん、作られた「物語」であろうが、半ばドキュメント。不穏な空気感が映画全体を覆っている。
一方、旅の途中で少年は様々な人々と出会うのだが、それがまるで嘘のように、誰もがものすごくいいひと。ほんといいひと。そういうひとたちに助けられて少年と祖母は旅を続けるのだ。
主人公が目的地に到着する、あるいは、目的の品やひとを獲得する奪回する。それを物語の結末とするならば、その目的達成を妨げる障害物・敵対者を複数用意するのは、物語のいわば常道であるが、この映画はそんな常識を無視している。繰り返すが、ほんとにいいひとばかりが登場するのだ。
この映画から学んだのはこのことだ。即ち、敵対者を設定しなくても物語ることは出来るのだ、と。
タイトルからはなにか明るい未来が設定されているのではないか、あるいは、話の途中で、バビロンにある空中庭園に行こうというようなやりとりもあり、とりあえずのハッピーエンドが用意されてるのではないかと思いながら見ていたが、前述したように、この映画の結末はあまりに哀しい。哀し過ぎる。
映画の最後に、イラクでは400万人のひとがアメリカとの戦争で亡くなったことが告げられる。
この映画を見たのが3・11。いろんなことを考えてしまった。